遭難

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遭難(そうなん)とは、主に雪山や無人島など辺境の地で行われるエクストリームスポーツである。 世論を考慮して、その競技は秘密裏に実行され、世間に公表される際には不慮の事故の結果として報道されるが、実際は事前に遭難時の対策等もきちんと行われており、きわめて計画的に実行されたスポーツである。「次の遭難の計画を練ってるんですか?」「そうなんですよ

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遭難のルール[編集]

あらゆる状況を楽しもう。

雪山や無人島など、そこに居るだけで生存不可能な状況と言えるような辺境の地に赴き、そこから脱出することが主な競技の内容である。環境が過酷であるほど、装備が貧弱であるほど、障害が多いほど高く評価される。競技の結果は世界遭難協会(WDA)によってまとめられ、毎年「遭難者ランキング」が発表されている。

また、生存に失敗した場合でも競技中の生存への意思や行動内容は評価される。

遭難史に残る有名な遭難[編集]

  • 1902年に八甲田山で開催された競技は、吹雪の中の行軍という高度な条件ゆえか210人もの参加者を集めた。うち199人が帰らぬ人となるが、あまりの壮絶さに当時の遭難愛好者は彼らの挑戦を褒め称えた(このことは当時の業界紙「葦原國遭難新聞」の一面を飾った事でも証明されている)。同時に、競技開催にあたっての安全対策について大きな議論が巻き起こり、競技における世界共通ルールが整備されるきっかけとなった。
  • 1912年に、地球上に残された最大の秘境である南極で開催された壮絶な遭難は、現在でもこのスポーツの歴史に名を残している。挑戦者は、部下4人と共に欠陥だらけの装備のみで南極大陸から帰還するという極限の条件に挑戦したが、結果として全員帰らぬ人となった。また、この競技と無関係に南極点を目指していた探検隊に先を越されるという屈辱を味わったことがこの遭難の価値を高めている。これを機に、遭難という競技の持つ危険性と神聖さが見直されたこととなった。
  • 1914年に、上記の競技で冷え込んだ遭難熱を回復するために再び南極で行われた大会。過酷な条件と28人という大所帯にもかかわらず、なんと17ヶ月後に全員が生還した。この競技でブックメーカーが大もうけしたことは有名な話である。
  • 1926-27年にかけて、当時の大日本漁業組合は19トン鮪漁船「良栄丸」による史上初の太平洋上における大規模な遭難を決行。翌年、日本の銚子沖からスタートした良栄丸はアメリカのシアトルに漂着。乗っていた人12人は全員死んでおりその内3人の遺体は確認されなかった。その後、遭難中に起きた怪事について様々な噂が流れた。
  • 1958年、南極にて、世界で初めてによる遭難が行われ、参加した15頭のうち2頭が生還した。競技の様子は1983年に映画化(後にアメリカもパクった)され、世界中に感動をもたらした。
  • 1972年にアンデス山中で行われた競技は、40年近くを経た現在でも物議を醸している。雪山に不時着した飛行機からの生還という条件であったが、参加者45人中、無事生還したのは16人であった。生還率の点ではそれほど低いとは言えなかったが、この競技が非公式に行われたこと、十分な食料と体勢を準備しなかったこと、一部にこの競技が「文字通りのサバイバルレースではないか」とする意見があることなど、今でもその正当性に疑問が持たれている。この事件はいくつかのノンフィクションに取り上げられている。
  • 2006年には、兵庫県六甲山で最大のチャレンジが行われた。低体温での仮死状態で生還するという驚異の試みは成功裏に終わり、目立った後遺症もなく終了したこの競技は、近代遭難競技史上の最大の成功とも言える。遭難評論家のディス・トレスは、「むこう2世紀はこれ以上の生還劇を見ることは無いだろう。我々は歴史の証人となったのだ」と評している。また、この遭難に持参された焼肉のタレは、生還直後にあらゆるメディアによって賞賛され、遭難時の必需品とされたが、その後の遭難者本人の証言で、「舐めてみたが食えるもんじゃなかった。」と言われたことであっさりブームは終わった。
  • 2012年にはツアー会社のアミューズトラベルが万里の長城でチャレンジを行った。悪天候の中観光客が普段あまり訪れない場所を通り日本人4人と入社一年の中国人ガイド1人が遭難した。一見すると普通の遭難であるが、緊張状態の中国へ行き、万里の長城を100km歩き、予備日もなく悪天候の中で決行という驚きのツアー設定ということで騒がれた。結局日本人1人とガイドが生還した。あまりに杜撰なチャレンジだったため、同社はエクストリーム・謝罪にエントリーしている。

特殊な遭難[編集]

  • 1882年に、有力政治家の板垣退助岐阜県で遭難した。しかし板垣は武術の心得があったことからその窮地を脱した。その時叫んだ「板垣死ストモ自由ハ死セズ」という言葉は有名で、死ぬようなことがあっても怯まぬ彼の競技姿勢が高く評価された。尚、ここで板垣を襲った暴漢は板垣の毅然とした態度に感激し謝罪した(実話)。
彼の功績を讃え、遭難現場である中教院跡地の岐阜公園に銅像が立てられている。
  • 1921年に、当時の総理大臣原敬東京駅で遭難した。これは原の、「遭難するのにわざわざ辺境の地へ赴くことはない、都会のど真ん中でも遭難することはできる。」という遭難を普及させたい意思によるものであり、彼の遭難現場である現在の丸の内自動改札付近の壁には記念プレートが設けられ彼の功績を讃えている。ちなみに、原を遭難に追いやった男大塚駅の駅員で、祖父坂本竜馬の隣りで遭難した経験を持っている。
  • さらに、1930年にはこれまた当時の総理大臣浜口雄幸が原元首相の意思を引き継ぐ形で東京駅での遭難を敢行した。彼の遭難現場である現在の新幹線中央改札付近には彼の功績を讃える記念碑がある。
  • 1970年4月14日には、アメリカ合衆国NASAの全面バックアップを受けてアポロ13号の乗員3名が史上初の宇宙での遭難を実施した。酸素・水の欠乏と宇宙空間という極寒の場所で、100時間に渡り耐え続け、なんと月の裏側まで漂流した。このとき、地球から最大40万171km離れ、月には254.3kmまで接近した。これはWDAの認定する地球からの最遠遭難距離であり、その行程は最長遭難距離である。結局、4月17日に硫黄島に漂着した。最終的に第二次世界大戦においてアメリカ軍を悩ませた硫黄島が彼らを救助するというシナリオに全世界が驚愕した事は言うまでも無い。

ゲーム化[編集]

遭難はエクストリームスポーツの一種として知られているが、2012年にアップル社は自社製品のiPhoneなどで使用するiOS6にリアル遭難ゲームをプリインストールして配布した。 日本ではこのゲームをプレイした者はいなかったようだが、オーストラリアでは実際にこのゲームをプレイして砂漠で遭難した者が沢山現れ、「あのエクストリームスポーツが手軽に楽しめる」と全世界で話題になった。

以下の記事も参照されたし。

関連項目[編集]