鍋奉行

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鍋奉行(なべぶぎょう)は、江戸幕府の役職の一つ。江戸城内において、徳川将軍が諸大名や公家、旗本などを料理でもてなす際の饗応役である。官位は従四位下左近衛権少将。

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概要[編集]

江戸時代の鍋奉行

徳川将軍が重要な来客を鍋料理にして饗応する習慣は、既に初代の徳川家康の頃から始まっている。

かつて豊臣政権時代においては、来客は茶の湯でもてなすのが一般的であった。だが、京の雅を知る都会派大名ならいざ知らず、多くの田舎大名にとっては、茶の湯の接待など息苦しいものでしかなかった。自らも三河の田舎大名であった家康はその空気を悟り、代わって鍋料理で来客をもてなす事にしたのである。この家康の饗応は多くの大名から好意的に迎えられ、関ヶ原の戦いにおいて多くの大名が東軍につく原因となった。対する石田三成は、茶の湯のもてなしによって諸大名の顰蹙を買ったのは、有名な話である(もっとも大谷吉継のような例外もいる)。

江戸幕府の開始により、鍋料理でのもてなしは幕府の公的行事となった。そこでそのための専門の役職が作られる事となった。それが鍋奉行である。安土桃山時代において千利休が絶大な権力を持った(そのため秀吉の勘気を被り自害を命じられるが)のと同様、江戸幕府においても諸大名を饗応する鍋奉行の権力は絶大なものとなった。

なお、時代によっては徳川将軍自らが鍋奉行役を務める場合があり、その将軍は鍋将軍と呼ばれる。

初代鍋奉行[編集]

徳川幕府における最初の鍋奉行は、大久保忠教(彦左衛門)である。彼は家康・秀忠家光の三代の将軍の元で鍋奉行を務め、旗本でありながら諸大名をしのぐ絶大な権力を握り、『天下の御意見番』と呼ばれた。「大久保彦左衛門が諫言する際は、将軍といえど居ずまいを正すべし。」と言われた。あるいは旗本が輿を使って登城するのを禁じられた際も、大久保忠教のみは特例としてたらいに乗って登城を許されるなど、その絶大な権力を示す逸話は数多い。鍋奉行はその職務上、鍋料理の材料の調達も行わなければならない。そして現場の調達役も、一介の町人でありながらも、鍋奉行の権力の一端を分け与えられた。大久保忠教の元で魚の調達を担当した一心太助の活躍は有名であり、後世において時代劇のヒーローにもなった。

綱吉時代 蕎麦用人の専横[編集]

徳川綱吉は鍋奉行の絶大な権力に危機感を覚え、その権力に制限を加える事を画策した。そこで彼は「生類憐れみの令」を発し、肉や魚、特に犬を食材として用いる事を禁じたのである(当時の鍋料理として一番ポピュラーだったのは、犬鍋である)。肉や魚を材料に用いない鍋料理は非常に貧弱なものとなり、鍋奉行は大いに面目を失ったとされる。だが綱吉の政策によって蕎麦用人が鍋奉行に代わって献立決定権を牛耳り、絶大な権力を握る事となり幕政はかえって混乱した。蕎麦用人であった柳沢吉保の専横は筆舌に尽くしがたく、赤穂の塩で味付けした塩ヤキソバを饗応に出そうとした浅野内匠頭や工作員の四十七士に対し八丁味噌鍋に漬け込む残虐な刑を申し付けており、刑罰の道具に使うことで意図的に鍋の品位を損なわせた。次代の家宣の代には生類憐れみの令は廃止されたが、蕎麦用人の権限は相変わらず絶大であった。

名奉行の時代 黄金期の到来[編集]

徳川幕府八代将軍に就任した吉宗は、綱吉時代から続いた蕎麦用人の専横を一掃するべく享保の改革を実施し、その実行役として大岡忠相を鍋奉行に抜擢した。江戸南町で辣腕を振るった彼は、それまで蕎麦用人に奪われていた献立決定権を取り上げて幕政の引き締めを図った。また市中の裁判沙汰では忠相本人が誤って複数購入した鍋を、原告と被告双方に売りつけて仲裁を促している。この逸話を後世の人は「三方一鍋の得」として彼の名奉行ぶりを讃えた。なお、町火消しのめ組の辰五郎に対して、火事を知らせる半鐘を金属鍋に変えさせる指示を出したのは徳田新之助であるとされる。一方で吉宗は米相場に手を出して鍋料理後の雑炊料理を広めたので、江戸の人々は彼のことを米将軍とよんだ。 こうした吉宗時代の改革を土台に、史上空前の鍋奉行繁栄期を築いたのが田沼意次である。数多くの豪華な鍋料理を考案したが、賄賂政治で得た巨額の資産を惜し気も無く様々な料理に注ぎ込んだ点を看過することはできない。その時代錯誤甚だしい豪華すぎる鍋を始めとした料理の数々は、当時の剣客たちの生活を描いた文献で至る所に確認できる。田沼失脚後、松平定信が断行した寛政の改革は、鍋の具材にまで口出しをしたので全国で顰蹙を買うことになったが、同時期に活躍した大鍋奉行・長谷川平蔵の活躍に江戸町人だけは溜飲を下げることができた。鬼の平蔵と呼ばれることもあるが、これは長谷川平蔵が着座して最初に鍋を突くまでは、同席する者全てが食べられなかったことを表すことばである。このことから彼をして、江戸期最強の鍋奉行と断じる者も少なくない。なお、彼の食道楽と名鍋奉行ぶりは正史に詳しい。

金四郎の蹉跌  鍋奉行の凋落[編集]

こうして鍋奉行の権威は大いに高まったが、鍋奉行・遠山景元(金四郎)の代で蹉跌をきたした。前述の長谷川平蔵以来の名奉行として、町人から絶大な支持を集めた彼であったが、大老・水野忠邦による天保の改革とその片腕として暗躍する鳥居耀蔵の妨害工作に遭う。鳥居耀蔵との権力闘争は苛烈を極め、遠山金四郎の売り物である桜吹雪の彫りを逆手に取って、鍋料理に上等の桜肉とマタギに吹き込んで命を狙わせるなどして、鍋奉行の権威を著しく失墜させた。奉行の地位を一時強奪した鳥居耀蔵は結局、遠山金四郎と裏切った水野忠邦の逆襲に遭って追い落とされることになったが、断続的に発生した鍋奉行を巡る混乱によって、市中に鍋奉行を自称する者が現れるようになった。この現象は吉宗時代から続いた政策で各家庭に鍋が普及していることが相まって、皮肉にも家父長制がそのまま家庭内鍋奉行制度、ひいては民間普及へと道を切り開くこととなってしまった。

黒船襲来 没落[編集]

幕末に至り、鍋奉行の権威はいよいよ失われる事となった。そのきっかけとなったのは、黒船の来航であった。アメリカ人の来航にともない、早速、鍋奉行に対して饗応が命じられたが、その際に鍋奉行が出したのはキムチ鍋であった。従来、朝鮮通信使への饗応としては、当たり前のようにキムチ鍋が用いられていたので、当時の鍋奉行の永井尚志水野忠徳らは何も考えなしに「同じ外国人だから」とキムチ鍋を出したのだが、マシュー・ペリーをはじめとするアメリカ人から「臭い! 辛い! 人間の食べ物ではない!」と多大な顰蹙を買う事となった。そのため幕府はペリーに対し重々に謝罪する事を強いられ、結果として極めて屈辱的な不平等条約を締結するに至る。この不平等条約が、ほとんど明治時代を通じての外交上の懸案になった事を考えると、彼らの責任は重大なものであると言える。

明治以後 廃止後の民間普及[編集]

徳川幕府の終焉と明治新政府の成立により、鍋奉行職も正式に終わりを告げた。明治政府としては、当然の事ではあるが外交上の重大な失点となった役職を存続させる意思は無かった。鍋奉行に代わって明治政府において饗応役となったのは、不平等条約に従い、フランス料理のシェフであった。一方で政府の公式の役職として廃止されたがために、これまでは幕府の高位高官が独占していた鍋料理が、広く民間に普及する事となった。明治時代において牛鍋が一大ブームとなるのには、こうした背景が存在する。そして鍋奉行の作法も民間に解放され、多くの鍋奉行が生まれた。現在に至るも鍋料理の場において鍋奉行の権力はこのような歴史に裏打ちされた絶大なものであり、宴席の者は全て鍋奉行の命令に従うのが、暗黙の了解となっている。

主な鍋奉行[編集]

関連項目[編集]

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