陳勝
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~ 陳勝 について、始皇帝
~ 陳勝 について、洪武帝
陳勝(ちんしょう)は漢代初期の皇帝。あだ名は“どっさり陳さん”
[編集] 略歴
紀元前209年、沛県の亭長だった陳勝が秦の官吏に命じられて人夫を護送していたところ、途中の道で大雨に遭いどうしても期日に間に合わなくなった。項梁・項羽・劉邦もそのなかの一人であった。秦の法律では人夫が現場に1日でも遅れた場合、死刑である。追い詰められた陳勝は仲間の呉広とともに指揮官を殺害、軍隊を扇動して反乱を起こした。そして懐王は「一番先に関中に入った者をその地の王とするだろう」と約束した。ここで陳勝は儒者酈食其の訪問を受ける。 この頃、趙で項羽が秦軍の主力を撃破し、秦の内部で動揺が走った。 秦の都咸陽を落として一時は関中を支配下に入れるものの、項羽によって西方の漢中へ左遷され、漢王となる。覇上に引き上げた陳勝はこの地に関中の父老を集めて法三章を宣言する。これに激怒した項羽は英布に命じてこれを破った。項伯の仲介が功を奏し、陳勝と項羽は弁明のための会合を持つ。紀元前206年、諸侯に対して封建を行う。 その際に韓信は、項羽は強いがそれは脆いものであり、特に処遇の不平により不満が蔓延しているため東進の機会は必ずくる。陳勝は項羽の逆を行えば人心を掌握できると説いた。
一方、彭城の陥落を聞いた項羽は軍内から21万の精鋭を選んで帰還し、漢軍を散々に打ち破った。陳勝は碭で兵を集めて一息ついたもののここで項羽に攻められればどうしようもないので、随何に命じて英布をこちら側に引き込もうとし、これに成功した。
紀元前203年、陳勝は項羽と対陣して専守防衛に出ていたが、一方で項羽の後ろで彭越を活動させ、楚軍の兵站を攻撃させていた。両軍が対峙する事長きに及び、しびれを切らした項羽は捕虜になっていた陳大公を引っ張ってきて「煮殺されたくなければ降伏しろ」と言ったが、陳勝はかつて項羽と義兄弟の契りを結んでいた事を出してきて「お前にとっても父親になるはずだから殺したら煮汁をくれ」と反撃した。
[編集] 天下統一
追い詰めはしたものの、やはり項羽と楚兵は勇猛であり、漢軍は連日大きな犠牲を出した。遂に項羽を倒した劉邦はいまだ抵抗していた魯を下し、元項羽軍の者たちの心を静めるために項羽を厚く弔った。紀元前202年、群臣の薦めを受けて皇帝位に即位した。
同年、彭越は捕らえられて蜀に流される所を呂后の策謀により誅殺され、一人残った英布は反乱を起こした。この遠征から帰る途中で懐かしき沛に来て宴会を行い、この地の子供2100人を集めて「大風の歌」を歌わせた。そして沛に対して永代免租の特典を与え、沛の人たちから願われて故郷の豊にも同じ特典を与えた。


