須田寛

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須田 寛(すだ ひろし、1931年1月28日 - )は、京都府出身のスローライフ主義者。東海旅客鉄道JR東海)の初代社長、現相談役。JRの経営トップの中では珍しく鉄道に対し非常に愛着を持っている。鉄道友の会会長で、次期社長に就任した葛西敬之が「現代の豊臣秀吉」と呼ばれているのに対し、須田は「鉄道界のローマ法皇」と呼ばれている。

国鉄時代[編集]

1954年(昭和29年)に京大法学部から国鉄に入社。翌年、静岡鉄道管理局に配属されると、幹部候補生なのに無理を言って御殿場線で車掌業務をやらせてもらうぐらいの国鉄好き。当時の国鉄という組織は本社(東京)がやたらと権限を持っていて、地方では本社が権限を持つ特急以外はほったらかしが当たり前であった。東京に次ぐ大阪でも同じ。大阪周辺を管理する大鉄局でも東京のお古を押し付けられるなどいじわるをされるぐらいであった。大阪ですらこの扱いなので名古屋などは糞も同然の扱いであった。しかし須田が名古屋鉄道管理局局長に就任すると問題点を理解しのちの117系の投入につながった。東京の国鉄本社勤務時代には183系特急「あさま」回送列車を有効活用する「ホームライナー」を考案したり、雑誌鉄道ジャーナルの読者投稿欄「タブレット」で鉄道キチガイマニアからの馬鹿げた有意義な投稿に対して懇切丁寧に回答をしていたのもポイントが高い。なお、1973年の優先座席導入のときには、座席の色分け用の生地が足りないことに気づいて、新幹線用の銀色の生地を使わせた。これが「シルバーシート」の始まりである。

須田式国鉄改革[編集]

1954年、京都大学法学部を卒業後日本国有鉄道(国鉄)へ入る。当時から国鉄は労使紛争が激しく、国鉄労働組合や国鉄動力車労働組合が幅を利かせ、鉄道員がヤミ休暇、勤務時間帯の入浴、上への不満があればすぐにストライキ、挙句の果てには飲酒運転や派閥闘争を行うなど、利用客を完全に無視した荒廃状態へ陥っていた。結果、国鉄は自動車航空機自転車に客を奪われ、25兆円もの債務を抱えて破滅に至った。

そんな中でも、葛西は東大教授に弟子入りしようと「せんせー、もう国鉄なんてやだお~」と逃げ出したこともあったが、須田は持ち前の知識とふところの財源で何とか京都・大阪の「アーバンネットワーク」建設に尽力した。下っ端のストに悩まされた時もあったが、これもエクストリーム・超展開で何とか切り抜けた(その頃の駅員は「まあいいか」と振り返る)。また、JR東海の準備で須田がいなくなったJR西日本の管轄区域では菅原道真が消えた京都のようにカミカゼが吹いて、余部鉄橋からジョイフルトレインが落ちちゃった。一度須田が就任した場合、絶対に持ち場を離れてはならない。何故なら、絶大な権力を持つ須田がいなくなるとその場所が大荒れになるからである(現在のJR東海のように)。その時の能力を認められ、JR東海の初代社長の座に着く。

須田は、葛西同様中曽根康弘と同様に、荒廃の中核であった国鉄労働組合を目の敵にして、国労職員を徹底的に排除する構えで改革に乗り出した。だが、汚い手は絶対に用いなかったとされる点が葛西とは違う。まあ、葛西と違って持ち前の知識と須田家の財産があったから使おうと思えば賄賂も使えたはずなんだけど、須田はスローライフ主義者だったから(ry

しかし、そんな須田にも唯一と呼べる狂いがあった。それは、JR西日本ではなくJR東海の社長に就任したこと。須田の作り上げた「アーバンネットワーク」のある関西では民営化後、すぐさまJR西日本井手正敬によって「アボーンネットワークに改悪された。」アボーンネットワークは、「エクストリーム・謝罪」の好材料となってしまったのだった。

スローライフ主義者である須田体制下のJR東海では、緩く合理化することを目標としていた。また、地域間合流を第一に考えており、名古屋鉄道日本航空全日本空輸高速道路と協調路線を図った。中日ドラゴンズ落合博光が加入した際には、臨時駅としてナゴヤ球場正門前駅を設置し、初列車で駅に出向いて社長なのに接客応対を担当。まさにJR東海として初の新駅開業を自らの手で行った。後に尾頭橋駅の設置が決まって正門前駅は廃止されたが、廃止当日(中日ファンには忘れられない、あの「10.8」の日である)に駅を訪れて硬券切符を一通り自費で買ったうえ、簡素ながら式典まで行っている。他にも、「須田寛レールパーク」を作ったりするなど、鉄道ファンも優しく扱っていた。このころのJR東海はまさに「楽園」だった。社内では葛西が実権を握り始めたために運転士に深夜手当を払うことも無駄とされ、度重なるダイヤ改正で寝台特急が削減されていったが、何としてでも寝台列車削減を免れるため自らの懐から手当を出したりもしていた。しかし、緩すぎた経営方針をどうしても許せない&須田の存在のために社長になれない怒りと焦りを抱えていた(国鉄改革三人組で1人だけJRの社長になってなかった)葛西がしびれを切らし、1995年に須田を会長職に追いやって社長に就任。以後、様々な問題(お察しください)を抱えていくことになる。現在は、鉄道友の会会長を務めている。


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