高田豊

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高田 豊(たかだ ゆたか、1902年1967年)とは岐阜県出身の詩人であり、共産党メンバーであり、そして無能の人である。

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「火吹竹」

毎晩 夜通し起きていて
僕は 何もしてやしないのです
このあいだの晩 火吹竹を作りました
ぶぅ ぶぅ ぶぅ

火鉢いっぱいに 真っ赤な炭が
燃え上がって来る
炭はまたすぐ 減ってしまいます
ぶぅ ぶぅ ぶぅ

火吹竹の音を聴いていると
外は雪のように静かです
本当に夜通し僕は 何もしてやしないのです
ぶぅ ぶぅ ぶぅ

概要[編集]

文学という概念において太古の昔から言われ続けているある真理が存在する。それは、誰にでも分かるような平易な言葉を用いて日常生活をありのままに映し出すことにこそ価値が生まれるという、大間違いである。

正確には、そこに一匙スパイスを入れなければ、とてもじゃないが見れたもんじゃない。というのが、多くの読み手の実感である。

しかし、世の中にはこういった真理を素直に実行することで名声を成した人も少なからずおり、武者小路実篤志賀直哉が属した白樺派と呼ばれる小説の系統には、確実に平易でかつ子供でも読める名作が並んでいる。けれどそれは、技術として用いられた平易であり日常である。そこには、「日本文学の新しい波」や「庶民のありのままの姿」といった隠し味がふんだんにまぶせられ、とてもおいしい料理に仕上げられているというのが真相である。実際、白樺派の作者たちは、時を経るごとに自分たちの生活と庶民の生活との乖離に苦しむようになる。けれども、彼らの生み出した表現の潮流はその後、実にどん底と近しいというかどん底の中から沸いて出てくる言葉を洗い出していく。

それこそが、プロレタリア文学と呼ばれる、その、なんといいますか、まぁ、文学における鬼っ子になるわけで。詩人としての高田豊も、まさしくその系統に属する。

無能の人[編集]

ようは簡単な話なのである。文学というものが、単に言葉だけで成り立つのであれば、武者小路も自分の生き方に苦しまず、志賀直哉も家族との不和に悩まず、有島武郎も人妻と心中する必要がなかったわけで。理想とされた姿を現実にさらすことは、それぐらい読み手の情熱を醒ます効果がある。そのため、どうしても近代日本の文学者たちは、神聖化や隠棲の道をたどる傾向にある。

つまり、有能であり成功してしまったがために、平易な言葉とやさしい思想の世界を追い出され、情念渦巻く人の世界で彷徨せねばならなくなるか、もしくは信者たちを引き連れて時代時代を乗り越えていくというのが、表現に関する世の中の常というか、まぁ、当たり前の話である。

しかし、そういった成功の魔の手から逃れることに成功することが果たして幸せかというと、決してそうではないというのがまた恐ろしい。実際、技術もクソもなく現実を切り取るだけで十分にスパイスとなるプロレタリア文学では、作者の人生もまた文学のスパイスである。

そのため、蟹工船で一斉を風靡したプロレタリア文学の旗手小林多喜二は、作品の大ヒットはもとより、その壮絶な死に様を含めて後世にまで語り継がれることになる。これを成功者と見ていいかどうかは難しいところであるけれど、特高警察に捕まって拷問の末にボロ雑巾のように殺された後、母親がその死体に泣きすがるまでを含めて、共産主義やキリスト教さらには女の一生というスパイスが複雑に入り混じるという、すさまじい文学作品となる。このように、プロレタリア文学は技術よりも現実というものをスパイスにする傾向が強かったため、小林多喜二と彼の作品は多くの読者と信者を獲得。一段上の存在にまで高められる。

で、その高める側の、いわゆる共産党様が文学と政治を思いっきり絡めるという愚挙をやらかしまして、その結果、多くの読者支援者投票者を獲得するとともに、多くの離反者を生み出していき、最終的にプロレタリア文学自体をすっからかんにさせる。そもそも、2010年になってなお、蟹工船を用いて選挙に当たろう一発当てようという段階で、彼らはとてつもない間違いを犯している。その中の一つが、弾圧という経験の中から選民思想に似た結論を見出したことで、もう一つが、自分たちこそが正しいという考えにのっとって行動を起こしていったこと。最後の一つが、誰にでも分かる文章から自分たちにしか分からない文章を求めたため、最後には庶民から遠く遠く離れていったこと。

ン十年かけて。

そして、庶民の現実を切り取った文学が庶民の生活から大きく離れて今そこにある差別だの階級闘争だのといったキナ臭い話ばかりになった結果、共産党もプロレタリア文学も廃れていく。高田豊は、まさにそういった文学の潮流の中に生き、そして死ぬ。けれど、彼は無名でかつ無能であったがため、成功というスパイスのえぐ味である嫉妬や羨望をまったく受けることなく、たんたんとその名を残すことに成功する。忘れられていたけど。いつまでも無名、だけれども。

生涯[編集]

裕福な家庭に生まれた高田豊は、青年期において詩作にかぶれ、生涯を文学にささげようと心ざした直後に、自分のやり方を曲げることを拒否。そのまま市井の中へと埋没していく。そして、軍政と直接関わる職場で見てはいけないものをたくさん見ていく。そして、敗戦後にすべてが大きく変わった中、壮年期を迎えてから共産主義にかぶれ、新しい思想をもって地域に貢献しようと試みるも、即座に現実を理解。早々に共産主義から遠ざかる。そして、郷里において妻を病で亡くした後は、4人の子供とともに、故郷を捨てて東京に出、すべての財産を処分して無一文でどん底の生活を開始する。しかし、貧困の中でも決して子供たちに惨めな思いをさせることなく、生きたいように生き、そして死ぬ。

そのため、死の3年前に彼が唯一残した詩集には、そういった言葉にできない残り香がふんだんにまぶせられる。幸いなことに、彼は無能であったがために、才能ある先人たちがたどった道にたどり着く前に死んだ。1964年の12月に発刊された生涯でただ一冊の詩集「詭妄性詩集」には、彼が文学に目覚めた時代の作品が残されている。なお、その後も労働者団体からの依頼を受けて、詩を数編残したようである。無論。まったく売れず。けれど、彼の残した彼のような生き方という表現方法が、その後、大受けする時代がやってくる。

生涯[編集]

1905年岐阜県に生まれた高田豊は、裕福な材木商の息子として生まれ、1967年に日雇いの土方として東京で死んだ。

その間、大学生時代にアナーキーで懐が深く、なおかつ性格も大変見事に捻じ曲がっていた文豪、佐藤春夫の元で詩を学び、即座に詩を捨てる。その後、京都の出版社に勤務した後、内閣情報局に引き抜かれる。そして太平洋戦争勃発後は国策新聞として創刊された日本海事新聞に出向。日本の海運情報を司る場所で編集業務に携わる。ただし、日米開戦後の海運情報というものは、よほど精神的に強くなければ関わり続けることが出来ない類のものである。そのため、終戦後は地元である岐阜県北方町に帰郷し、思いっきり共産主義に目覚め、親の代に蓄えた財産をことごとく吐き出していくことになっても、それは致し方ないことかもしれない。

あれほど有能だった文学青年がわずか数年で人生感を変えるのだから、戦争はやるせない。

けれど、1950年に共産党が武力闘争派と平和革命派に別れて内部闘争を始めたことに幻滅して、党を去る。そして、1957年に妻を亡くした後、彼は東京に出ていく。そして、地元の家屋敷を売り払って、借金を支払い、残りの一部を使って保育園まで建てて、何もかもをすっからかんにしてから4人の息子たちとともに東京に出て行く。

生涯[編集]

高田豊の生涯、それは確実に人間(じんかん)の中を生きることがヘタであったのだけれど、高田豊を生きるのだけはとても上手だった、といえる。息子がまねをして見事すぎるほどの高田渡として死んだように。確実に、息子の生き様と死に様には、父親の薫陶が含まれている。貧乏を苦にせず、成功に惑わされず、そしてやりたいことをやる幸せを追い求める。そんな人生を歩める人間はそういない。どこぞの武者小路や志賀直哉、読者のイメージを強烈に書き立てすぎたせいで、自分で自分の生き様を不自由にさせていったのに比べ、書かず売れず埋もれて消えていった高田豊のほうが、生き方の見本としては上にくる。

とりあえず、それぐらい無能というものは生きたいように生きるために欠かせない強さになる。

そして、まかり間違って小林多喜二のように成功に殺されないよう、さっさと今、自分がいる場所から飛び出していく逃げ出す度胸もまた、行きたい道を行くのに大変に重要になる。故郷を捨て恩師の元を飛び出して、仕事を転々とし、最終的に貧民窟に落ち着くことになっても、堂々と生きていくなら何の問題もない。そういうことを子供たちに伝えただけで、すごい表現なわけだから。

楽しい話[編集]

1960年代に日本を席巻したフォークブームにおいて、神様ともてはやされた岡林信康。彼は、それまでタブーとされてきた部落差別へ光を当てたことを皮切りに資本家による労働者への弾圧やアメリカによるベトナム戦争に対する反戦歌など、いわゆる反体制という枠組みを生き方に変え、その先頭をつっ走ったことで知られている。

が。

そんな神様の側になぜかいた高田豊の四男は、全国の若者が熱狂していく様子を醒めた目で見ており、どこまでもどこまでもどこまでもどこまでも自分のペースで自分の歌を歌い続ける道を選ぶ。というのも、岡林信康が光を当てた、資本家に搾取だの労働者うんぬんなんていう話について、まさに高田渡はそこにいた。そこで暮らした。そして、高田豊は共産党にまで入って、そしてさっさ幻滅して飛び出していた。結局、言葉にならない現実を言葉にしようとあくせくしたところで、絶対に伝わらないというものがいくらでもそこにあった。

妻を亡くした男やもめが故郷を捨てる。東京で生きる。肉体労働なんてしたことがないのに、4人の息子を土方の日銭で育てていく。貧乏の中、一家で夜逃げまでして、朝鮮人部落の側で彼らとともに過ごし、子供たちも働きながら勉強。そんな中で詩作を行い、まったく売れず、けれども不幸を嘆くことなくやはり肉体労働で日銭を稼ぎ、決して子供たちの教育を諦めることなく極貧の中でも堂々と生きた。そして死んだ。

そういう人間に育てられたためか、四男の高田渡はフォークブームのど真ん中にいたにも関わらず、反体制というブームに乗っていないという珍しい立場になる。全国の大学生がギターを片手にアメリカの歌を必死に訳し、黒人たちの叫びを我が事のように問題視していた中で、彼は大正時代の壮士演歌をギターで爪弾いていた。そして、新しい潮流として、まるで公民権運動のように人々が差別反対を叫び続ける中で、もっとも近しい場所で差別を知っていたにも関わらず、黙って自分のやりたいことだけをやっていた。知らないから、揺り動かされる。知らなかったから、揺り動かされた。じゃあ、知ってる人間はどうすればいいのだろう。

そんな疑問の中、高田豊の息子は、自分の言葉で作詞することをやめる。若輩が自分の人生をスパイスにすることをやめる。そして、日本の詩人の言葉をメロディに乗せていく道を歩き続ける。金子光晴山之口貘草野心平菅原克己といった有名無名の詩人の言葉を後世に伝え続ける。そのくせ、自分の父親の詩をほとんど残さないのだから、実に厳しい。まぁ、身内だからこそというのはよく分かる。

最終的に、フォークの神様は3年間の活動の後で、俺らいちぬけたとばかりにフォークブームからとび出すことになる。残された信者がどういう道をたどったかについては、別に語る必要もない。

そして、小林多喜二を惨殺したように、今度は共産主義にかぶれた若者が自分の仲間をリンチして埋めたことが発覚してから、フォークとその周辺から信者が一斉にいなくなる。政治的な言葉は敬遠され、無難な恋愛や希望や未来といった言葉が世の中を席巻していく。けれど、先に彼らから離れていた高田豊の息子とフォークの神様は、危うくその難を逃れる。結局、高田豊の四男は30年後に自分自身を最高のスパイスとして表現の場に君臨する。で、すぐに死ぬ。

佐藤春夫という人[編集]

高田豊の師であり、日本文学史に名を残す偏屈が佐藤春夫という人である。そもそも、大正時代にアンサイクロペディアにもなじみの深いオスカー・ワイルドについて評論する段階で、気狂いの素質十分である。なんせ、明治の学生のころにはアナーキスト(無政府主義者)として名高い大杉栄と親交を結び、自らもその思想に染まった後、大恋愛のすえに不眠症を患ったり、仕事中毒に陥って神経衰弱をわずらったりと、実に人間くさいアナキズムを生きた人である。

そんな彼の門下にあった人物がまさに綺羅星のごとくと言え、高田豊はもとより、ガチホモの稲垣足穂山椒魚井伏鱒二、さらには太宰治壇一雄といった性格破綻者、そして戦後における第三の新人、遠藤周作吉行淳之介安岡正太郎などなど。おもろいおっさんの下にはおもろい連中が集まるという、ある意味、必然のような名前がずらりと並んでいる。

そのくせ、そんな異常な交友関係を持つ師とはきっぱりと袂を分かつのが、実になんというか高田豊という人間らしい。彼は、大正時代、その学生だったころに詩の才能をもって師から目をつけられる存在だったにも関わらず、詩の代作という行為をよく思わずにそのまま飛び出ていく。偏屈の元にて偏屈が育った結果である。そして、その素晴らしい性格は、しっかりときっかりと、息子にも伝えられていく。

だって、そう生きることが面白いわけだから。

その死[編集]

1966年の大晦日に、三鷹の団地に暮らしていた高田豊は、長男から洋酒の小瓶を土産にもらい、それを一口飲んだ後、「ああ、こんなものを飲んでいたら死ぬなあ」とつぶやいた後に死ぬ。わざわざ、四男の誕生日をまたいで、1月5日に死ぬ。

けれど、死に様をすら後世に残すのがいい表現者というものである。およそ40年後に同じように酒で死んだ四男は、2005年4月に札幌で倒れたあと、2週間後の4月16日に亡くなったのだけど、これがまた悪友でかつひげ酔っ払いで、フォークの語り部として唯一無二のなぎら健壱の誕生日に死んだものだから、忘れられなさという点で実に父親譲りである。その前日がこれまた仕事仲間のTHE ALFEE坂崎幸之助の誕生日であるため、四男の歌を歌い継ぐ2人に鉄板ネタを用意するのだから、実に粋な話である。

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「火吹竹」

毎晩 夜通し起きていて
僕は 何もしてやしないのです
このあいだの晩 火吹竹を作りました
ぶぅ ぶぅ ぶぅ

火鉢いっぱいに 真っ赤な炭が
燃え上がって来る
炭はまたすぐ 減ってしまいます
ぶぅ ぶぅ ぶぅ

火吹竹の音を聴いていると
外は雪のように静かです
本当に夜通し僕は 何もしてやしないのです
ぶぅ ぶぅ ぶぅ