霧雨魔理沙

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』

魔理沙 から転送)
霧雨魔理沙

魔理沙の肖像画。
基本資料
本名 霧雨魔理沙 
通り名 黒い魔 
身体情報 人間。 
好物 キノコ
出身地 不明
出没場所 幻想郷
所属 魔法の森
親戚等
霧雨魔理男(姉弟)森近霖之助(親友)

霧雨魔理沙(きりさめ まりさ)とは、幻想郷にある魔法に居住している、普通魔法使いである。博麗霊夢友人である。

目次

[編集] 特徴

魔法の森の霧雨魔法店という店に住んでいて、森のキノコを採集して魔法薬の材料にしたり、それを食べて生活している。キノコ王国にいる霧雨魔理男とは生き別れの姉弟である。

女に好かれる性格らしく、アリス・マーガトロイドパチュリー・ノーレッジは彼女に恋をしている。魔理沙は魔法書を一つも持っておらず、アリスやパチュリーの魔法書を無断で借りている。本人は「死ぬまで借りるだけだぜ。」と言っている。これは窃盗罪そのものだが、アリスたちは、魔理沙のことが好きなので、許してしまっているのが現状である。また、同人誌ではアリスやパチュリーとアーン♥♥をしあっているのがほとんどである。 パチュリーとの性生活

重度の蒐集癖があり店は彼女が集めてきたガラクタで埋もれているが、ほとんど放置されているので奥の方は腐り始めていてキノコが生えている。

[編集] 友好関係

魔理沙はアリスやパチュリー以外にもさまざまな友好関係がある。博麗神社巫女、博麗霊夢とは友人であり、博麗神社へ遊びに行く事も多い。

実家は人間の里の大手道具屋「霧雨店」であるが、魔法書を盗んだとかなんかで、魔理沙はどうやら実家の家系から消滅させられた身らしく、魔理沙のほうも実家には関わるのを避けていて絶縁状態にある。

森近霖之助とは24時間営業の香霖堂と言う店を造った。

最近では河童と妖しい関係を築きつつあると言う。

[編集] 過去の魔理沙

黒歴史

このセクションに書かれていることは黒歴史です!
できることなら見ないでおいてあげて!!

黒歴史魔理沙
黒歴史魔理沙


あたい魅魔様に勝っちゃった・・・うふ・・・うふふ・・・うふふふふふふ・・・うふ・・・きゃは・・・きゃははは・・・きゃははははは・・・うふふふふ・・・・きゃははは・・・・うふふふ・・・きゃはははははは・・・・うふふ・・・うふふふ・・・・うふふふふふ・・・きゃは・・・きゃはは・・・きゃははは・・・きゃははは・・・うふふふふ・・・うふふふふ・・・うふふふふふ・・・きゃはははははははは・・・・きゃははは

[編集] 摩理王(まりおう)・摩理裟帝(まりさてい)

摩理王(まりおう)とは、東晋末期~南北朝初期に登場する人物で、同年代における覇王二帝のうちの一人である。

南朝帝名は「兎裟帝(ウサテイ)」。字(あざな)は「煌星(こうせい)」。帝名からもわかるように、摩理王は黒兎の毛皮でできた袈裟をトレードマークとしていたため、「幻想郷演義」等の書物には「摩理裟帝(まりさてい)」と記載されていることもある。

幼名は摩梨(まり)という記録は残っているが、その他の幼少期における記録はほとんど無い。

摩理王の名が初めて歴史に登場するのは東方平定における上海「紅茶関(こうちゃかん)」における攻防戦である(紅茶関とは、現在は紅摩関(こうまかん)と呼ばれている上海へ至る関所であり、摩理王と紅茶関総兵である紅美令(こうみれい)との戦いが有名である)。ここから摩理王は力を伸ばし、天賦の才にて長江周辺を平定、「霧(む)」を建国した。なお、実家から勘当され独り身を立てたと言う説が伝わっているが、真偽のほどは定かではない。

摩理王は王位に着く前から天才軍師と歌われた鄒伯(すうはく)を師と仰いでいたが、その師弟関係は後世に「摩崇多鄒伯(ますうたすうはく、摩理王は鄒伯を強く崇拝していた、の意)」と伝えられるほどであった。

鄒伯は春秋戦国時代に陰陽五行説を唱えた鄒衍(すうえん)の子孫と言われており、摩理王は鄒伯に習った八卦(易占)や占星術を駆使して華南を統一したとされている。

なお、摩理王は他人の良いところを一度見ただけで自分のものにできるという特技を持っていたが鄒伯の技の真髄は生涯かかっても十分に得ることができなかったため、当時の人々は鄒伯を「摩理王ですら魅せられる、強き力を持つ者」、すなわち「魅摩(みま)」と呼び、讃えた記録が残っている。

臣下にはその他にも、森近霖(しんきんりん)、巴紐莉(ぱちゅうり)等の名将が集い、霧国は弱体化・形骸化した東晋に替わる華南一の力を持つ国へとなって行った。摩理王は蓬莱山(中国南西、崑崙山脈の一山)における営林等が有名であるが、「武は力である」という名言からわかるように、武に優れた王でもあった。

強大な敵国、窟派(くつぱ)を破った「鬼畜全声の計(きちくぜんせいのけい)」は特に有名である。これは守りの固い城に篭もった窟派を倒す為に、前漢項羽の故事(四面楚歌の由来)からヒントを得て全員で誘焉往厭(ゆうえんおうえん)の歌、つまり「終焉へ誘い、厭世に往く」呪歌を歌いながら戦うことで敵の士気を低下させ、全滅させたという戦術である。

なお、後世この戦術にヒントを得たアガサ・クリスティーが孤島に閉じこめられ、不気味な歌の通りに連続殺人事件が起こるという名作ミステリー「そして誰もいなくなった」を書いたことをここに記しておく。

窟派平定をもって摩理王は華南を統一、「兎裟帝」を名乗って帝政を敷き南朝の基礎を作ったが、この詳細については本書の「兎裟帝」の項を参照されたし。

数週の差を持って、幽尽(ゆうじん)が「麗帝(レイテイ、白麗帝とも)」を名乗り北朝を開くと摩理王は「麗撃(れいげき)」を掲げ、北朝麗帝と交戦状態に入る。数回の衝突を経て最終的に北朝と南朝はほぼ黄河南北で中国を2分することとなり、西方の要「長安」、および東方の要「上海」の2大都市は南北朝(および海上交易)の緩衝点として不可侵都市となった。 なお、摩理王(兎裟帝)と幽尽(麗帝)の戦いとしては特に「花映塚の大合戦」が有名である(詳細については本書の「兎裟帝」他の項を参照されたし)。

国力を疲弊させた花映塚の大合戦以降は、主に治世に力を入れ、「武は知略なり」で有名な阿梨雛(ありすう)や巴紐莉(ぱちゅうり)の力を借り、武による制圧から、和睦による協調統治へと進んでいった。(漢民族から「東夷」と呼ばれていた東方の異民族の王「夷王 獅崇(いおう しすう)」と手を組んだことも記録に残っており、広い協力関係を結んでいたことが伺える)

晩年、摩理王は息子および阿梨雛たちに国を任せ、隠居する。残念ながら、隠居してから没年までの記録は国葬を含め全く残っていない。「幻想郷演義」は「摩理裟帝、その光輝なる魂は幻想の野へと至れり」と締めくくっており、民間では「摩理王は死を超越し仙人となった」と信じているものが多い。


[編集] コラム4(B)……摩理王と茸について

南方の大国、窟派(くつぱ)を破るなど数々の武功を立て、「崇覇摩理王(すうはまりおう)」と呼ばれ崇拝されるほどの力をもっていた摩理王であったが、興味深い話に「茸について非常に詳しかった」という伝承が残っている。

森近霖(しんきんりん)との茸談義は始めると夜が明けるほどだったと言われており、それを基にした戯曲「流星・茸・焔える花」は一世を風靡したと言う。

[編集] 関連項目

ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディアの専門家気取りたちが「霧雨魔理沙」の項目を執筆しています。