10.19

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「10.19」の項目を執筆しています。

10.19とは、1988年10月19日に行われた、パシフィック・リーグにおける、ダブルヘッダーの2試合である。

「10.19決戦」とも呼ばれるが、ウィキペディアの専門家気取りからは、「決戦ではない」とされている。

概要[編集]

1988年10月19日朝の時点で、近鉄バファローズは、最後に残したロッテオリオンズとのダブルヘッダーに連勝すれば優勝という状況であった。近鉄は川崎球場をジャックして優勝イベントを行おうとし、同球場を本拠地としていたロッテが色々抵抗したという図式である。

テレビ朝日系列がこれに便乗して、放送予定を変えまくって中継して、社会の混乱を広げた。

なお、スコアなどは、[1]あたりを見れば書いてあるので、参照されたい。

第1試合[編集]

ロッテの先発投手は、今や欠番となっている26番をつけた小川博であった。

試合開始時に偵察メンバーの伊良部秀輝が一塁の守備についていた(後で打順が回ったときに代打と交替した)という奇策の事実を示すロッテのメンバー表が、かつてはウィキペディアに掲載されていた。このメンバー表の記述は後に変更されたが、そのユーモア欠乏症ぶりは、あちらでも事実に反する記述の強行、いつまでも納得しないものとして合意が成立し、そのことが管理者によって宣言されている。ウィキペディアでここまでのユーモアは、エイプリルフールでもなかなか見られないものであり、他に「1989年の日本シリーズについて加藤発言を取り立てて書くようなものではない」など、さらにユーモアあふれる合意も成立している。このウィットとユーモアの管理者は、ウィキラブなどによる対話申し入れを広く受け付けているとのこと。

一進一退の試合展開の終盤に、近鉄が1点を勝ち越すと、上記テレビ朝日の中継は、さらにボルテージを上げて、近鉄に肩入れし続けた。

第1試合終了の頃に、この試合の盛り上がりに隠れるように阪急ブレーブスの身売りが発表された。ただ、この身売りの衝撃は、翌日の日本経済新聞が一面で取り上げるなど、10.19の陰に隠れることはできなかった。

第2試合[編集]

この試合も一進一退であった。

ロッテの先発投手園川一美は、ホームグラウンドでありながら近鉄側に乗っ取られたような状況での投球で、後に「敵役には慣れた」と言っている。

近鉄1点リードの終盤でホームランを打たれて同点とされた近鉄が、ロッテの走者を牽制プレーで二塁ベースから押し出してアウトにするというプレーを見せたのに対して、ロッテの監督有藤道世は、当時の試合時間制限ルールを活用し、判定への抗議で試合時間を消化して時間切れ引き分けへの持ち込みを企てた。近鉄監督の仰木彬は「信義にもとる」と怒ったが、後の祭り。

こうしたロッテの執念の抵抗が効を奏して、近鉄は加藤哲郎がイニング開始の投球練習を省略するというパフォーマンスを見せたりしたものの、第2試合は引き分けに終わって、近鉄の優勝は阻止された。なお、この時の加藤のフラストレーションは、翌1989年の日本シリーズで、相手チームの読売ジャイアンツに向けられたとか。

川崎球場[編集]

当時のロッテの応援団には、あの白黒装束集団はなく、いつも空席が目立っていた。

1988年当時の川崎球場は「応援熱心なロッテファンのおかげで沸騰する」ということは全くなかった(写真は現在のロッテ本拠地・千葉マリンスタジアム)。

それがこの日は、近鉄やマスコミに煽られた群衆が大挙来場して球場は、ほぼ近鉄一色で埋まっていた。

こうした経験のない球場スタッフはパニック寸前状態で、球場内の売店は軒並み売り切れとなり、夕食をとれずに空腹を満たせないこととなった観客は、空腹や球場への筋違いな不満を近鉄への応援に向けて、一層騒ぎ続けた。

こうした球場の不穏な状況、煽るテレビ局、さらには、阪急ブレーブスの身売り発表も重なって、「パリーグの最も長い一日」とも呼ばれることとなった。

優勝お預け状態の西武[編集]

近鉄と優勝を争っていた西武ライオンズは、所沢の夜風の寒さの中、近鉄が連勝しないように祈り続けた。あまりに強く念じ続けたせいか、耐えられなくなって一旦帰る関係者もいたという。

近鉄が優勝を逃した反射的効果として優勝した西武監督の森祇晶は、近鉄の優勝がなくなったことを慎重に確認して、胴上げや記者会見に応じた。こうした老獪な姿勢が、下記中日との日本シリーズでの圧勝の要因となったともいう。

セリーグ優勝の中日[編集]

セリーグからの日本シリーズ出場が先に決まっていた中日ドラゴンズも、10.19は、ミーティングや練習はさておき、試合のテレビ中継に見入っていたという。中日の監督は鉄拳星野仙一であったが、翌日顔面が変形していた選手がいたという話は聞かないので、星野も見入っていたのだろう。

星野は、以前中日が西武との日本シリーズに負けたリベンジに執念を燃やし、「西武と対決したい」と言っていた。この星野の執念が実ったのか、近鉄は、中日とも星野とも、日本シリーズで対決することがないまま合併で消滅した。

参考文献[編集]

そんなものは、ウィキペディアの同項目の「参考文献」段落を見ればいいだろう。ここに書いてあることは、概ね裏付けられると思われる。

あちらにはずらりとたくさんの資料が並んでいるが、要出典厨たちには本当に検証可能なのだろうか。

関連項目[編集]

「2位ではだめなのですか」