UnBooks:有名探偵カズマと魔法使い

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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祭りの中で[編集]

昔々亭桃太郎という落語家がいた。大正末期から昭和初期にかけて、東京を中心に活躍していた。その桃太郎さんが国の命令、すなわち赤紙によって招聘され、戦地へと赴いたことが、この物語の大きな転機となる。

序章[編集]

ここ、昭和一桁のころの東京は浅草。一時期の勢いは失いつつあったエノケンと、新しい笑い「形態模写」でまさに日の昇る勢いで駆け上がってきた古川ロッパの争いで、毎日が祭りのような賑わい。後に、いわゆる軽演劇の端緒として有名になる「笑いの王国」と呼ばれた興行が、浅草、そして東京を引っ張っていく中、人々の喧噪の間で、一組の男女による今夜の夕食の話し合いがおこなわれていました。

この物語の主人公であるカズマは、大学を卒業したばかり。昭和初期の就職難の中で無事に乗り越え、「大学はでたけれど」の悲劇に巻き込まれず、いわゆるモボ、すなわち「モダンボーイ」と言われる青年期をここ東京で過ごしています。そして、同じくモガ、「モダンガール」と言われるハイカラな彼女のキクと一緒に、まるで迫り来る戦火のにおいを振り払うように、それを、その一瞬を楽しんでいました。

銀座にて[編集]

「さあ、シチューが出来たわよ」。ここは銀座のカフェー。メイド姿で髪を島田に結ったおばさんが、西洋料理で、庶民の口にがまず届かないビーフシチューを持ってきました。時代は、いわゆる大学野球の全盛期、天下分け目と謳われた早慶戦で、水原茂選手が起こしたリンゴ事件で国中が大騒ぎになったあとのこと。若人が白球を追い求めるこの祭りに、帝都はもとより日本中の庶民は熱狂、大学という存在が若さの象徴となった時代。

世界恐慌の傷もダルマ蔵相のモラトリアム政策で一息ついたこの時期、起業というものがようやく怖いものではなくなった東京では、若社長による様々な新しい店が立ち並ぶようになりました。その結果、ここの店もオーナーが大の早稲田ファンであることを目玉に、ワセダの学生を取り込むことで大きく繁盛していました。さらにこのかふぇーでは、大学野球、もしくは早慶レガッタでワセダが慶応に勝った日、特別にタダでシチューを御馳走してもらえることで有名でした。もちろん、この店のオーナーは元早稲田ボーイ。腹を空かせたバンカラな学生達に混じって何も関係ない連中も、そのご相伴に預かるのがいつもの光景でした。

店内[編集]

「よし、食べるか。キクも食べるか」。男臭い熱気と都の西北が鳴り響く店内で、ようやく席にすわれた二人は、メニューに目を落としつつ、タバコに火をつけます。

「ううん。今日はおなかいっぱいだからいい」。混雑した店内を縫うようにやってきたウェイトレスにキクがコーヒーを頼みます。紫煙をくゆらせながら二人は特に会話もないまま夕闇から夜へと換わり行く銀座を見つめています。降り出した雨に会話も途切れがちになる中、店内には「ワセダ、ワセダ」の大合唱が響いています。

「おっと、ようやく出来上がったようだ」そういうと、カズマは厨房に目をやり、一番乗りで出来立てのシチューをもらいに立ち上がりました。そのすぐ後に彼らのそばの席に、短髪で和服の男たちが座りました。たったそれだけのことですが、人の出会いってものは、ときに信じがたいきっかけで始まるのでした。結局、餓えた学生たちの後ろでさんざん待ってから、ようやくカズマは出来立てのシチューを持って帰ると、スプーンで一すくい食べました。「おい、キク」。お前も食べろよ、と言いかけたその瞬間、隣の席で同じように「おい、きく」と、まったく同じ言葉が発せられました。

「うんっ?」思わず振り返ると、そこにはその時代、大変によく見知った顔がありました。ハゲあがった頭に笑いが張り付いたような顔。今をときめくお笑い芸人、柳家金語楼が弟の昔々亭桃太郎と二人でシチューを食べようとしていました。

「あ、あなたは!」そう言うと、カズマは倒れました。勢いよく立ち上がって、二人の芸人に近づこうとした瞬間、雨に濡れた床で思いっきり足を滑らせました。それをふせごうと思わずテーブルに手をついたところ、テーブルクロスと一緒に食べかけのシチューを盛大に自分の体にぶちまけました。少し冷めていたからよかったものの、おろし立ての背広が台無しになりました。それを見ていたメイドのおばさんは、こらえるようにくくく、と笑うと、大いそぎで逃げるように厨房へ飛んでいきました。そして、ひとしきり笑い声が響き渡ったあと、手に一杯のタオルとおしぼりをもって駆けつけると、シチューまみれになったあなたに優しい言葉をかけつつ、やっぱり、笑いをかみ殺しながらたまねぎやジャガイモをぬぐってくれました。もちろん、店内は大爆笑の嵐です。

「カズマ」「大丈夫ですか」「ヒック、そんな、立てなくなるほど、酔っ払っちゃいけませんよ、ひっく」

倒れたカズマの周りに、キクをはじめとした人々が集まります。

カズマはふらふらしながら立ち上がり、手ぬぐいでシチューまみれの体をぬぐうと、そそくさとトイレの個室に駆け込みました。

トイレの中で[編集]

「ううう……」

恋人と憧れの人物の前での失態。カズマは、激しい心の痛みの後、目を覚ますかのように3回冷水で顔を洗いました。鏡を見るとびっくりしました。頭の上にニンジンがきれいに2つ張り付いていました。二階からも大笑いが聞こえてきたのはこのせいでしょう。再び個室にもどって、ニンジンを下水に投げ捨てます。自分の身体がより小さく見せるようにして、トイレの扉を開けると、再びワセダワセダと聞こえるようになっていた店内が一瞬、静まり返りました。再び、カズマはトイレへと戻ります。

しかし、本当の出会いはここからなのです。

桃太郎さん[編集]

「やぁ、お隣さん。いや、カズマさんとやら。実に、災難でしたな」

そんな声と、ドンドン、とドアをたたく音がします。

「気持ちは分かりますが、残念ながら、ここを使いたい人が列になって困っていますよ。ここは兄貴の笑顔とハゲ頭に免じて、この雪隠詰めから出てきてやってください」

(はぁ・・・仕方ない)

カズマはドアを開けました。

「わっ。何だお前、その格好は!」

一瞬、血まみれのように見えたビーフシチューに染め上げられたシャツを見てとると、トイレが開くのを待っていた、学帽をかぶってベロベロに酔っ払った男子大学生連中はびっくりします。恥ずかしさに小さくなったカズマは答えました。

「僕は、その、少々難しい悲劇を起こし、店内に波紋を呼び起こしましたが、正しさにおいては一高よりもワセダだ、慶応ボーイははっきりいってヤボな連中ばかりです。ワセダ、ワセダ、ワセダー!」。元法政大生とは思えない言い草です。もっとも、カズマ自身、法大の校歌ができた頃はほとんど学校に通ってなかったのでよしとしましょう。

ワセダワセダの掛け声に、カフェー中の酔っ払った男たちは大歓声をあびせかけます。当たり前です。店内から都の西北がそこかしこから響き渡ります。

トイレに迎えに来た桃太郎さんと一緒に身を低くしてこそこそと席へと戻ると、そこには満面笑みの金語楼と、そして恥ずかしさに真っ赤になったキクがカズマを待っていました。「カズマさん。あなたってやつは、私が新作にこだわっているのを知らないかい?」笑顔を一層に強め、ハゲ頭を光らせながら金語楼は親しげに語りかけます。

柳家金語楼[編集]

「いや、初めて会った人にこんなことをお願いするのは慶応ボーイのようにヤボかもしれないが、ぜひ、今の光景を高座にかけてみたいんだが、当事者の君に今すぐここで許可してもらいたい」と聞いてきました。これが夢か、そうカズマは思いました。小さい頃からの、正しくは、尋常小学校一年のころから大ファンだった雲の上の人は今、カズマに親しそうに話しかけています。たった20分前にはまったく信じられなかった光景です。

しかし、事情が事情です。「その、あなたがどんな人か知りませんが、その、彼女の手前、そのような話は受けらないように思えます」。嘘です。大学さぼってまで高座に通いつめています。

などと、必死にファンであることごまかしながら、そわそわしながら、お絞りで体を拭き続けました。

すると、隣の桃太郎さんがこたえました「とりあえず、兄貴、この場所を出て、この方にいい服を買ってあげることが先だと思うんだ。いや、なんでしたらそちらのお嬢さんにも」「なるほど、きく、すまないが正一を呼んでくれ」「兄貴、またカズマさんが混乱するじゃないか」

そう言うと、にこやかに笑って桃太郎さんは続けます。「すいません。実はですね、私の呼び名とあなたのお連れ合いの名前が同じキクだってことなんです。いえね、私の名前は、本名を山下喜久雄といいまして、兄貴の山下ケッタローは皆さんご存知なんですが、今日のように兄弟二人っきりのときは、だいたいキクって呼ばれているんです。まぁ、そんなことよりカズマさん、災難でしたな。けど、人間万事塞翁が馬といいます。これを機に、きっといいことがありますよ。で、そのいいことのはじめが私達」。そういうと、男たちは・・・正確に言うなら3人の男と一人の女性をつれて、雨の降り注ぐ銀座のカフェーをあとにします。交換所に電話をいれて、付き人に車を回してもらう時点で、カズマもキクも夢心地であったことは言うまでもありません。ちなみに、その後の店内ですが、第二の事件として、明らかに急性アルコール中毒になった1年生をトイレの外へ出すことが、次の大騒ぎの開始となり、結局、シチューまみれの男事件の記憶は誰もが忘却してしまいました。

親なし子のショウイチ[編集]

「えっ。カズマさん。あなたのご職業は探偵でしたか」簡単な自己紹介のあと、車内に驚きの声が上がりました。レディファーストでキクが助手席、そして後ろ座席に3人並ぶと、けっこうな狭さになります。「すると、今大人気の名探偵明智小五郎やシャーロック・ホームズ、怪盗ルパンで見るああいったお仕事をされてるんですか」「はい、あれらの作品のおかげで、私も就職できなくて故郷に帰らざるをえないような悲劇に遭うことはなく、無事、大東京に住み続けることができました。でも、明智小五郎のような話は現実にはまったくありません。この、殺害現場を探偵が捜査するなんて話は作者である江戸川乱歩の頭の中から出てきた話であって、本当の探偵の仕事はもっと地味なものです。もっともそれでは面白くないのでああいった話にしているのでしょう」

「あらいやだ。カズマさんたら。私には探偵という職業は秘密にすることが仕事だなんていっているのに。でも、外国ではそんな話もあるじゃないですの」キクが聞くと、なんと、カズマではなく、運転手であり、金語楼の付き人だった難波正一さんが話しのコシを折りました。「いえ、実は、日本でも同じような話はありますよ」「え?」正一さんは言い続けます。「私みたいに天涯孤独の浮浪児には、いい人も悪い人も色々な話を持ってくることがありまっせ、ということです。さ、つきました。この仕立て屋でよろしいですね」「お、すまなんだな正一はん」「兄貴、京都から帰ったらなるべく関西のくせを出さないってさっき約束したばかりじゃないか」

この時代、自らの兵役体験を題材にした新作落語「兵隊落語」で爆笑をかっさらっていた金語楼は、暇な時分、京都に出かけては兵隊落語の祖である桂三八と交流を持っていました。そして、後に東京の芸人でありながら、吉本興業のトップをとるという前代未聞の所業を成し遂げることになります。

仕立て屋にて[編集]

「ねえ、カズマさん。このお店真っ暗じゃないの」「いや、多分、大丈夫。それよりも、これから僕たちのまだ見たことのない、芸人の世界があるってことをイヤというほど体験することをキクも覚悟したほうがいいと思うよ」そういった口元も乾かぬ中、正一さんは雨戸を閉め切って中が真っ暗な仕立て屋の戸をガンガンと叩き始めます。「こんばんわ、○○屋さん、親父さん、えろうすいまへん!また急ぎで一着、仕立ててくれまへんか!」ガンガンガンガン。中に明かりがともります。気難しそうな初老の男性が引き戸を開けると、アゴでこちらを向かいいれました。「まったく、俺がカカアに捨てられたのはあんたらのせいだ」。ぶつくさしゃべる親父に暗がりから金語楼が声をかけます。「まぁ、そういわないでくれ、今回は私のハゲ頭に免じて許してくれないか」「おや、敬ちゃんじゃないか。なんだいなんだい。いるんならいるって言ってくれればいいじゃないか」ついさっきまでの不機嫌さをまるで感じさせない笑顔で続けます。「なんだなんだ、キクちゃんも一緒かい。こらうれしいねえ。さ、そんなとことに突っ立っていると風邪引くよ。入んな入んな」。

白熱灯の光る作業場で、桃太郎さんが先ほどの顛末を語ります。「・・・というわけなんだ。できれば、今夜中に一着、探偵さんに仕立ててやってくれませんか」「なるほどねえ。分かりました。だとすると、私一人では厳しいので少々お待ちいただけますか」そういうと、親父さんは店の奥に声をかけます。「タカシ!おいタカシ!急ぎの仕事だ。これからひとっ走りお姉ちゃんの家まで行って寝てる連中たたき起こして連れて来い!どうせ嫌がるだろうから、最初に敬ちゃんとキクちゃんが来てると言えよ!わかったな!」申し訳ない気持ちでいっぱいのカズマに金語楼はいいます。「探偵さん、気になさらなくて結構ですよ。むしろ、気にとめてほしいのは、あの探偵の七つ道具を入れるポケットやらなにかがいるかどうか、今のうちに親父さんに言っておいた言いかと思うのですが」。「いえ、それも冒険小説の中だけの話なんです」

夜の暗がりに寝ぼけ眼の少年が傘も差さずに飛び出そうとするとき、キクが言います。「いけませんわ、こんな夜更けに子供を一人で使いにやるなんて」それをさえぎるように正一さんが言います「それでは、タカシ坊ちゃんは私がお送りしましょう。そして、もしよろしければ、その、キクさんもそろそろご自宅へ連絡を入れてみてはいかがでは・・・」その言葉を聴いて、カズマとキクは一瞬黙ってしまします。金語楼も桃太郎さんもなにかを悟ると、桃太郎さんがタカシ君を車に連れていってくれます「さ、タカシちゃん、お外の車はドイツから来た最新式の車なんだよ」「ほんと!」無邪気な声が外に消えた直後、金語楼のカミナリが正一さんに落ちます。「バカ野郎!お前はだからトーヘンボクなんだよ!!」明らかに年齢が下の金語楼が正一さんを拳骨で殴りつけた瞬間、キクが金語楼と正一さんの間に割って入ります。「おやめになって!」一瞬、何がなんだか分からない顔をした後、正一さんは、ハッとした顔をして「大変申し訳ありませんでした!」と、キクとカズマに土下座します。

回想シーン[編集]

一年前・・・

「へえ、カズマさんていうの。始めまして。と、まずお近づきのしるしに一杯どうぞ・・・」

半年前・・・

「そうなの、やだわ、震災で死んだ弟と一緒の年なのね・・・」。

3日前

「・・・分かったわ、お父さんに相談してみる」

白熱灯の下で[編集]

カズマはこの張り詰めた空気になるべく笑みをむけながら、これまでの二人の話をします。自分は、片親と姉を震災で亡くし、苦学してようやく大学にまで通うことができた。そして、マのつく犯罪について調査しているときに彼女と知り合い、情報源として、その後はよき友人として関わってきたことを話します。「何時の日か、フィッツジェラルドの『偉大なるギャツビー』のように、はかないまま散れたらいいねって、何時の日かアメリカに行って、本場のジャズを聴いて・・・って、そんな話を、今日、浅草でしてきたところなんです」

「彼女も、地震で3人の家族を陸軍本所被服廠跡地の火災旋風に焼き殺され、残された父親と一緒に、苦労に苦労して生きてきたそうです。一年前にアルバイトを始めた探偵社の仕事で初めてキクにあってからすぐ、親父さんが倒れられ、今はどうにか糊口を凌いでる状況です。ですから、彼女が夜の女であろうとなか・・・」「やめてカズマさん」「・・・うん。そうだね。つまり、このしがない新人探偵は、毎日毎日、酒場から探偵社へ通勤しながら、1週間に1度、大学に通学していました。つまり、そういうことです」

いつもの笑顔を忘れたような金語楼は、ここに来て初めて、ほっと一息つきます。「苦労なされたんですな・・・」そういうと、作業場に両膝をついている正一さんに言いました。「さ、いいからさっさとタカシちゃんと一緒にお姉ちゃんを迎えにいってあげなさい」「はっ」そういうと、正一さんは脱兎のごとくに夜の雨の中へ駆け出します。ずっと黙っていた親父さんが口を開きます。「さ、こっちへ着なさい。寸法を計るから」

ショウイチ、羽柴家に入る[編集]

正一さんと桃太郎さん、そしてタカシ君は歩いて10分、走って5分、人さらいに捕まったら30年かかる道のりを車で10分かけてお姉ちゃんの家に到着しました。軽いドライブです。テーラー羽柴は奥にかすかに灯がともっています。タカシ君が入り口を叩いて催促します「お姉ちゃん、急ぎの仕事だよ!父ちゃんがコウシ兄ちゃんと一緒にうちにすぐうちに来いって!」奥の戸がガラガラと開き、この一家の主である羽柴孝志さんが顔を覗かせます。「おや、タカシちゃんだけかと思ったら、お客さんも一緒に来たのかい」「ううん、この人はあの車の運転手さん。そして、この人はこれからはこの人が新作落語を切り開いていくって父ちゃんがいつも言ってた、キクさんって人」「おや、師匠、始めましておうわさはかねがね、さ、雨に当たるといけないどうぞ、そちらの方も中にお入りください」「これはすいません、こちらのほうこそ夜分遅くに申し訳ありません」。すると、奥から大きなお腹をした奥さんと思われる人が出てきます。「あ、お姉ちゃん。この人が、前から父ちゃんが自慢してたキクって人だよ」「バカ、タカシ。大人に向かってなんて口を利くの。ちゃんと師匠って呼ばなきゃダメじゃないの」「いや、いいんだよタカシちゃん。お父さんには私達兄弟ともに昔から本当にお世話になってるんだから、そんな仰仰しい物言いをしてはこっちが恥ずかしいよ」「師匠、ほんとにすいません、あわせて、昔々亭桃太郎の襲名、本当におめでとうございます」「いえいえ、どうも、ま、ここでは何ですから、早速親父さんのところへ向かいましょう」。コウシさんもおねえちゃんも自前の道具を持って車に乗り込みました。

これが縁で、正一さんはこの後も何回かテーラー羽柴を訪れることになります。

寸法[編集]

羽柴孝志さんと奥さんがドイツ製の最新自動車に驚いているころ、親父さんに寸法を計られながら、カズマは金語楼に感謝しつつも、本当にあの光景を話にするのかと、困り顔でたずねています。

金語楼「カズマさん。これは私どもの職業にとっては、ある意味、どうしても避けられない道なんです。面白い話ってものは、講談のように見てきたように嘘をつくだけではいずれ飽きられてしまうんです。ですから、今日のように、嘘みたいな本当の話をすることで、多くの人をより長く楽しませることができる。私はそう考えています。でも、安心してください。名前も場所もちゃんと分からないようにしますから」

そういうと、金語楼は袂からキセルを取り出し、仕事場においてあるタバコ盆を手繰り寄せます。「親父さん、誰か適当な名前を言ってみてくれ」「羽柴静子」「なんだ、娘の名前じゃないか。まぁ、それでもいいか」。そういうと金語楼は即興で物語を話し始めます。

「ここは、大阪は難波。人々が日夜活動する町並みのある一角、ビルヂングの2階に羽柴探偵事務所があります。ここでは、正義に生きる志を持った5人の探偵が、日々発生する事件を解決するために・・・どうも調子がよくないな・・・・ここでは、毎日起こるいろいろな事件を解決しようと・・・やっぱりよくないな。やっぱり、探偵小説みたいにかっこいい話はすらすらと出てこないもんだね」。親父さんも言い返します「やめてくれい。聞いててさぶいぼがでらあ。そんなしゃっちょこばった話でなく、いつもどおりの落語でやってくれないか」

「やっぱり、そんなもんかね」キセルをポンとたばこ盆に叩きつけるとすっと背を伸ばして滔々と語り始めます。

「え~、長いこと落語家をやっておりますと、ありがたいことに、私の名前とそして、顔、もしくはこの頭を覚えてくれるありがたいお客様がおります。しかし、中にはどうも慌て者、そそっかしい方もいらっしゃいまして、私を指差しながら、ほら、あれあれ、なんていったか、なんて方はまだいいほう。私を指差して、ほらあれ、ほら、なんていったか、あ、そうだ、ビリケンさんだ。なんて、私を新世界の置物かなにかと間違うかたもいる」。

ここで、キクが吹き出し、カズマもちょっと笑いかけます。

「しかし、間違うぐらいならまだいいんですが、中には、自分が何をしているか忘れる方もいらっしゃって、この間なんか、東京は銀座、しかも丸の内のしゃれたカフェーで私を見つけた方がいらっしゃいまして、よっぽど慌てていたんでしょうな。こちらに一歩踏み出そうとした瞬間、机の脚に引っかかって、転んだ拍子にあっとつかんだのがテーブルクロス。もしこれが椅子かなにかだったらよかったんでしょうけれど、転んで尻を突いたその方の頭の上に、それまで食べていたお皿から何からみんな頭の上に落ちてきちゃった。え、中身・・・。うん、その方は立派な紳士でしたから、そのあとのことはとても口に出すことはできません。でも、ニンジンとジャガイモはとってもおいしかったです」。

この段階で、キクは笑い声をあげてカズマは苦笑し、親父さんもついに噴出します。

そのとき、外で車の音が聞こえます。孝志さんと静子さんを連れて桃太郎さんが帰ってきます。

「あら、せっかくいいところでしたのに」キクのぼやきにカズマも少しだけ同調しました。

仕立て[編集]

調度、寸法が計り終わりました。コウシさんも静子さんもあいさつもそこそこに、作業場の中、なれた手つきで自分の道具を並べています。「では、いつもの最高級イギリス製の布地でいいね」「けっこう」「えっ」カズマもキクも驚きます。親父さんは店の奥から厳重に梱包された袋を持ってくると、中からいかにも高そうな布地をとりだします。カズマもキクも恐縮してもう少しお安いものでと行ってるそばで、笑いながら金語楼は親父さんに注文します「おっと、そちらキクさんにも今イギリスで流行っている服を見繕ってやってくれないか」

「いえ、そんな・・・」驚きとうれしさでキクもカズマも目を白黒させています。

「ですが、それだと日をまたぐことになりますよ」コウシさんが心配そうに尋ねます。「そいつぁ残念。それだと私の仕事に支障が出そうだな。よし、とりあえず、今日は寸法だけ計って、後でご実家へ届けるということにしましょう。昔々亭桃太郎殿、汝の襲名披露祝いにおける兄から最後の贈り物だ。このお二方を決して邪険に扱ってはいけませんぞ。君のこれからの高座での活動に、このお二方の話ほど重要となる話はないでしょう」。

カズマもキクも金語楼の話は何のことだか分かりませんでした。もっとも、その後、カズマが仕事を続けていく中、桃太郎さんとの交流がいかに家業に役立ったか。そして、桃太郎さんにとっても新作落語の形成に役立ったか。結局、まったく違う職業の人たちと交流してこそ、様々な発想や考えが生まれてくることは歴史が証明しています。

完成[編集]

静子さんとコウシさんの手伝いもあって、作業は親父さんの仕上げの段階に入りました。

「何。このガキ。眠いから寝ていいかだと」。親父さんが殺気だった声でこたえます。「おい、静子。台所に芥子漬けがあるから、そいつをイヤというほど食わせろ。最高級品を作っているってのに、眠ろうとするなんざふてえやろうだ。とにかく、出来上がるまで全員の手元をしっかりと見て置きやがれ」今までとまったく違う父親の姿に、タカシは驚きました。それに対して、キクはこう説明しました「タカシちゃん。お父さんの仕事を見るって本当に大切なことなのよ。眠いのは分かるけれど、ここはぐっと我慢して御父さんの仕事を見続けるのよ」ハサミを止めずに親父さんが言います。「お、キクさん・・・いや、キクちゃんと同じだとなんかおかしいな。でも、ま、仕方ない。キクさん。あんた若いけれど色々と物事を知ってるね」。

「ええ、もしこの子が、自分の父親の本気の仕事姿を見なかったら、そっちのほうがかわいそうですから」

「そうですか。まあ我々みたいな布と糸とハサミで生きていくものにはおしまいってものがありませんから。一生かけてはさみと布地とチャコペンを握り続けていかなけりゃいけませんから。でも、逆に師匠たちみたいな一見華やかな世界よりもずっと楽だと思いますよ。」

「まぁ、そうかもしれないね。私ら兄弟みたいに早いうちから売れたりするとなおさらそうかもしれないね。第一、しゃべる商売なのに普通にしゃべることができなくなっていくんだからひどい話だよ。今日みたいに初めてあった人や親父さんの前でのウケ狙いに同じことをしゃべってもまったく違うって分かっちまうんだから悲しい話さ。ここはこうしたらいいかな。あこはこうしたらいいかな。そんなとこまで考えながら普通の話を言うなんて、マトモな人間なら絶対に考えないことだと思うよ」「でも、あんな話をタバコ一服吸いながら考え付くってのも大したもんだよ・・・と、よし、こんなもんだろ。さ、カズマさん。そでを通してみてくれ」

ピッタリです。こんな短時間にこんないい背広が出来上がるのですから、すごい話です。

「なんだったら、そのシチューまみれの背広も知り合いの染み抜き名人に頼めば何とかなるけれど、どうするかい」カズマがこたえるよりもはやく、桃太郎さんがサイフを取り出して親父に5円紙幣を押し付けます。「兄貴に全部出させては一族の名折れ。ここは不肖の弟におまかせください」金語楼もショウイチさんに目で合図を送ります「よかろう。では、カズマさんにキクさん、先に車に戻ってください、私達は後からすぐ行きますので」。

こうして、雨の振り続く夜更けにショウイチさんにつれられてカズマとキクは親父さんとタカシ君、そして羽柴さん一家にお礼を言って、街中の平凡な仕立て屋をあとにします。その後、すぐに金語楼に桃太郎さんも車に乗り込みました。もっとも、彼らはいったいいくらのお金を払ったかについては何も言いませんでした。カズマもキクも分かっていたので聞きませんでした。

その後、長らくの間、カズマもキクも服についてのもろもろについて、親父さんと羽柴さんにお世話になることになりました。そして、金語楼も桃太郎さんも、生涯かけて応援してくれる上客を二人も獲得しました。

事件発生[編集]

「何。強姦殺人事件が起きただと。分かりました。すぐ行きます」

金語楼が上方へ旅立ってからの東京。今日は休みだったはずのカズマがちゃぶ台の前でうんうんうなっています。その目の前で、桃太郎さんがまけず劣らず苦しんでいます。今、二人は新作落語、いや、むしろ漫談に近いような形で、桃太郎さんが宴席でしゃべるためのネタ作りに没頭しています。世は空前の探偵ブーム。子供達に人気の明智小五郎やシャーロック・ホームズといった推理小説を、高座にかけようと考えたのは金語楼でした。が、そのために必要な題材を持つ人間はカズマしかいませんでした。最初のうちは簡単な推理トリックや暗号といった子供にも聞かせられる話を提供したカズマでしたが、世の中、老いも若きも探偵ブームにのっかってくると子供だましの話はどうしても飽きられてしまいます。そのため、ここで一つ、エログロナンセンスを盛り込んだ大人用の話を作ろうとして、二人は固まっているところです。

「師匠、アベサダはさすがにまずい気がするんですが」「いや、誰でも知っているからこそ、聞いてみたいと思ってくれる。もっとも、私も2回目はさすがに厳しいと思うけれど」

カズマはため息をつきつつ、集めた情報をノートに書き写し、資料を片手に桃太郎さんに説明、桃太郎さんが韻を踏みながら原稿に落としていきます。

すると、玄関で桃太郎さんを呼ぶ声が。どうやら、電話の取次ぎのようです。ほっと一息つきながら「では、すいませんが厠をお借りします」「ふぅ・・・」桃太郎さんも同じく一息ついてはだけた帯を締めなおし、ゲタをはいて、外にでて、おもいっきり伸びをした後、角の商店の電話機へ小走りにかけだします。

「あ、桃太郎師匠、先日ご注文された女のほうのキクさんの洋服ができあがりました。お暇なときでよろしいんで受け取りにあがってください」と、めちゃくちゃな丁寧語で話した後、桃太郎さんが「ありがとう、今週中にうかがうよ、親父さんによろし・・・」と言っている最中、後ろで親父さんが「バカ、なんて口をきいてやがるんだ」と声がした後、「イテっ」と声が聞こえ、タカシくんは電話を切りました。

「キクさんの服ができあがったようですよ」厠から出てきたカズマに桃太郎さんはそっとお伝えします。「はぁ、そうですか」。一話作ると服が増えます。自分の服はいりませんが、恋人の服となるとどうも弱味を握られたような気がしてなりません。「じゃあ、仕方ありませんね」そういって、カズマは無言で手ぬぐいを頭に巻きつけます。彼の合図です。しぶしぶと、今日持ってきた二つの風呂敷のうち、アベサダではなかったほうの包みを開けます。「この事件は絶対に、どんなことがあっても人前では語らないでくださいね」そういうと、カズマは10年以上前に起こった凄惨な連続殺人事件の資料を開きました。

佐太郎[編集]

「俺は今から西でこの事件のカギを握る人物と会いに言ってくる。きっと、いや、なんとしてでも、国家を揺るがすこの凶悪事件の解決にメドをつけないといけない。その後は警察に協力に向かうだろう。お前らは来なくていい。いや、絶対に来てはいけない。1週間留守番をしていてくれ。1週間後、必ず帰るから」。

そういうと、名探偵羽柴タカシは一路京都へと出かけていきました。

捜査現場1[編集]

西の話を語る前に、あの凄惨な事件について語らなければいけません。1923年関東大震災が起こるわずか3ヶ月前より始まった、一都六県にまたがって次々と少女達をその毒牙にかけた恐るべき事件のことを。最初の犠牲者は群馬県で12歳の少女が自分の手ぬぐいで首を絞められて殺され、以降、次々と少女達が犠牲になる中、着実に犯人の逮捕へと近づいていた警察の捜査はしかし、不意に起こった大地震によって停滞。復興の槌音が響く中、漸くこの難しい事件の捜査が再開されますが、しかし、圧倒的に人員が不足した中で、犯人の手がかりは業火の中で灰燼に帰し、さらに同一犯と見られる新たな連続殺人事件が始まってしまう。そんな中、ある被害者の親が藤沢市にある羽柴探偵事務所のドアを叩いた。

ここまでを原稿に起こして桃太郎さんが呟きます「しかし、知ってはいましたが、聞けば聞くほどひどい事件だったんですね」。「えぇ、アベサダのように面白おかしく取り上げる事件もあれば、この佐太郎の事件のように、絶対に詳細についてを世には出せない、次代に引き継いではいけない事件もあるんです」。

京都[編集]

京都西陣。古くは山城の国と呼ばれた都にタカシが訪れたのは犯人を探し出すためではない。むしろ、すでに人相が割れて逮捕間近である犯人の心の中にあるものを知るために訪れたのである。訪れたのは織機の音が響く裏長屋。そこには、犯人が幼少を過ごしたころとまったく変わらぬ貧困という名の地獄がありました。タカシが捜査を開始すると、すぐに犯人とその家族のうわさは耳に入りました。そして、約束していた犯人の顔なじみの女から聞いた彼の実像は筆舌に尽くしがたいものでした。人でなし。畜生。そして、犯人が最初に犯した殺人。その現場である竜安寺の山道にて最初の被害者を手に掛けたとき、犯人はまだ18歳でした。

そこに、タカシがやってきたのは、ある意味、自分の中のモヤモヤした気持ちにケリをつけたいと思ったことと、最初に少女の命を奪った犯人の見た光景を、ましてや、その後無期懲役の憂き目にあった彼が最後に見た普通の世界というものに興味を持ったことが始まりでした。「枯山水と連続殺人の第一歩が交わった場所。禅の思想と憎むべき強姦殺人の心境。そして、虎の子渡し」。

カズマが驚いた顔で桃太郎さんにたずねます「よくもまあ、竜安寺の石庭の逸話なんて知っていますね」「いえ、これは上方にいる兄貴から聞いた話なんですがね、私には禅だのなんだのという話はよく判りませんが、こんな子供の遊びみたいな話は妙に覚えてしまうもんですね」

藤沢[編集]

「容疑者は確保されました」藤沢の事務所でタカシの帰りを待っていた3人。トシタツ、シュウイチ、トシオさんは、東京の警察からの連絡に飛び上がります。まだタカシさんは帰ってきていません。そのため、慌てて依頼者に電報を打ちに行く係、東京の警察へと飛んでいく係、そして藤沢駅でタカシさんの帰りを待つ係を3人でジャンケンで決め、早速3人で外に飛び出した瞬間、そこに、藤沢駅から魂を抜かれたような顔をして歩いてくるタカシの姿がありました。「おや、電報も打ってないのによく帰ることが分かったね」「いえ、センセイ、そんなことはどうでもいいんです、犯人が、犯人が捕まりました!」

「そうですか」。そっけない返事をして、名探偵タカシは事務所のドアを開きます。そして、自室へ入ると「起こさないでいい」と告げ、着替えもせずソファーに寝そべり、あっという間に寝息をたてます。3人はそっと部屋から出ると、電報の係と警察の係、そして事務所の留守番の係に分かれた後、残った一人は夕餉の支度をしてから、タカシが目覚めるのをひたすら待ちました。

東京[編集]

そんなこんなで一夜明け、稀代の凶悪犯の逮捕に騒然とする世の中を見ながら、名探偵タカシはトシミツさんと一緒に東京へと旅立ちます。警察署は新聞や雑誌の記者が埋め尽くし、どうにかこうにか受付まで行くと、タカシは埼玉で殺された被害者の両親から依頼を受けた探偵だと名乗り、自らが得た情報についてを話したいからと、担当の刑事に連絡してほしいと伝えました。しかし、受付の初老の警察官は困ったように言いました。「埼玉の被害者のエミさん(仮名)殺害容疑については今回の逮捕とは無関係で、あくまで長野と群馬、そして東京の事件での逮捕となっているのですが」

・・・やられました。とりあえず、今回は埼玉の事件の立件についても可能になるかもしれないとの話を担当にご連絡くださいといって、連絡先を書いた紙を受付に私、タカシとトシミツさんは頭をかきながら無駄足の東京から藤沢へ帰還します。

藤沢2[編集]

しかし、無駄足と思いきや、藤沢の探偵事務所へ帰るとそこには東京から次のような電報が届いていました。「サイタマリツケンカノウ アスコラレタシ オオノ」どうやら無駄足の無駄足だったようです。仕方なく、ダイニングルームで遅い昼食の支度を3人にお願いし、タカシは・・・

桃太郎さんがさえぎります。「ちょっと待ってください。ダイニングルームってのはつまるところ、台所ってことですか?」「えぇ、洋館では普通にある大きめの食堂みたいなものです」「いくらなんでも、明智小五郎が洋館に住むってのはどうかと思うんですが」「ですが、横浜でしたらごく当たり前の話ですし」「藤沢でもそんな洋館があったんですか?」「いえ、まぁ、あったと言えばそのありましたが、その」「少なくとも、探偵事務所を洋館にしてしまったら。竜安寺の話が台無しになるじゃないですか」「はぁ、そんなもんですか」「いいですか、この物語は大正デモクラシーの時代という西洋化の進む時代に反発するかのように、日本人の持つどす黒い意識が表面化するか、というのが大事なところなんです。そんな中、いくら名探偵だからといって西洋の洋館に住むような人物を出してしまっては、聞いてるほうが目が覚めてしまいます」。さすが、桃太郎さん、厳しい意見です。

・・・タカシは探偵事務所の台所で納豆と白飯をかっ込みます。そして、食後に、京都で行った聞き込みの成果を3人に話しました。食後でよかった。食中だったら吐いていました。しかし、それは事実なのです。恐ろしいことです、これが事実だということが3人にはとても信じられませんでした。なお、タカシもこの話を聞いた後、飯が2日ほど喉を通りませんでした。逮捕されたという連絡を聞いて初めて自分に体力がいることを実感しました。

メッキ[編集]

翌朝、タカシは1人で東京へ向かいました。電車の中には女子学生の制服として流行りだしたセーラー服がちらほらと見えます。ジイさんは寝ぼけ眼でアクビをし、車掌さんが切符を切りながら釣られてあくびを返します。あの地獄の震災から1年、ようやく人々に安心が芽生えてきたときに、また、地獄へと眼を無理やりに振り向かせるような話が世の中に広まろうとしています。

東京にたどり着いたタカシは風呂敷を片手にまずは電報を打ちに郵便局まで向かいました。埼玉の依頼人に一言、言伝を残してから、少し伏し目がちに稀代の殺人犯の待つ警察署へととぼとぼと歩いていきます。「ふぅ」。署内はいまだ喧噪の中にあり、座る場所もないままタカシはオオノ刑事への面会を受付にお願いしてごったがえす中をぶらぶらと歩いています。

凶人[編集]

「その犯行の手口はじつにおぞましく、無辜な少女たちを強姦すること数十件、そして殺害すること十数人という稀代の極悪人である」。そんな今朝の新聞の見出しを眺めながら、タカシはぼんやりとしています。血で染まったような凶悪犯という見出しは、残念ながらタカシの知ってしまった話とは違います。世の中には、どうしようもない悲劇がある、ただそれだけなのです。

ようやくオオノ刑事が現れて、タカシを空いている部屋へと招き入れます。そして、タカシは京都で彼の行った聞き込みの成果を余すところ無くオオノ刑事に伝え、そして、関係者によって書かれた彼への手紙も、あわせて、オオノ刑事に目を通してもらいます。そこには、まさに、鬼畜の所業とそれにいたるまでの経緯、何よりもタカシの推理によって導き出された犯行の動機が余すところ無く伝えられていました。そう、それは、けっして、部外者には伝えられない所業でした。

タカシについてきたトシオさんは、耐え切れずに便所に駆け込みます。オオノ刑事は黙ってきいています。そして青い顔をしたトシオさんが戻ってくると、一言、「鬼畜」、そうつぶやきました。

取調室[編集]

犯人である佐太郎は取調室で笑っています。自分がやった犯行をさも面白かったかのごとくにしゃべっています。それを調査する刑事たちをあざわらい、被害者をバカにして、そして全て世の中が悪かったなどと語り、あたかも取り調べにあたる警察官を愚弄することを楽しむかのようでした。そこに、オオノ刑事とタカシが室内に入ると、中で取り調べに当たった連中をみんな外に出します。中には、半笑いの凶人と眠たそうなタカシ、そして何を見るでもなく両者を見ているオオノ刑事の3人が取り残されます。

対決の前に[編集]

ここでようやく桃太郎さんが一息つきます。缶入りのタバコとマッチを手元に引き寄せると、しみじみと一服して一言。「重い、本当に重い話ですね」。汗まみれでちゃぶ台に前のめりになって資料と格闘していたカズマも、桃太郎さんから手渡された缶から一本拝借し、もらいタバコで紫煙をくゆらせます。「むしろ、こんな話を人様にきかせられるようにできる師匠のほうがすごいですよ」まごうことなき本心です。「いやあ、これは江戸川乱歩先生のやり方をそっくり真似ただけですよ。あの先生は本当に言葉にすることができない異常な話を書いてそれを正常と思わせる達人です」それについては、カズマも思うところがありました。むしろ、いずれあの先生の書いた話を真似る人間も出てくるだろうなと思っていましたが、桃太郎さんには黙っておきました。

対決[編集]

警察、取調室、沈黙。

いきなり来た部外者に、佐太郎は怪訝な目を向け、そして10分、20分と沈黙の時間が過ぎます。ことによると、1時間は誰も何もしゃべらなかったかもしれません。しかし、無粋な小間使いがお茶を持ってきた後、ついに名探偵カズマと凶人との対決が始まります。

「これはあなたに殺されたエミさん(仮名)が書いたそうです」。熱いお茶をすすりながら、カズマは佐太郎にわら半紙に書かれた少女の将来の夢を見せます。「もちろん、君が字を読めないことは知っている」そういうと、カズマはわら半紙をくしゃくしゃに丸めてくずかごに放り込みます。「内容は秘密です」。なんのことか分からない佐太郎に、二口目の茶をすすりながらカズマは次に長野県での犠牲者の父親からの手記を見せます。「これを読むと多分、君は胸の底から喜びそして激しく笑うだろう」だから、一言だけ読むことにしよう。「おい、お前がやったのか」。そういうと、カズマは再びくずかごへわら半紙を丸めて捨てます。タカシは佐太郎に一瞥だにくれず、淡々と茶とわら半紙、そして被害者、その家族の言葉が書かれたわら半紙、くずかごと、淡々と丸めては捨てていきます。湯のみ茶碗が空になると、タカシはトシオさんを呼びます。「すまないがおかわり、後、これを捨てといてくれ」わら半紙で山になったくずかごを指差した後、オオノ刑事に言います「じゃあ、本日はこのへんで」そして席を立とうとした瞬間、カズマは佐太郎の胸ぐらをつかみ、壁に押し付けます。「いえ、すいません。これはエミさんのご両親からのご依頼の一つです」その瞬間、一瞬だけ笑おうとした佐太郎の鼻っつらに、強烈な頭突きを叩きつけます。「違います。私は堅気だから、そういうことはしませんけれど、これもあいにくご両親からのご依頼なんです」

「カタギだと?」初めて佐太郎が口を開きます。鼻からは血がボタボタとこぼれ落ち「そのエミの両親とやらに伝えておけ、あんたの娘は泣きながら、あんたらのことを最後まで叫んでいた。俺は笑いながら一緒になってさけんでやった。でも、結局、あんたらはやってこなかった、そし・・・」「おっと、いけない。鼻血を止めよう」そういって、オオノ刑事が佐太郎の口を手ぬぐいでふさぎます。笑い声と一緒に鼻血が噴出し続けます。

「あとな、貴様は誤解してるが俺は字が読めるんだ!」「あぁ、だから読ませなかったんだ」そういうとカズマはオオノさんに会釈をして、取調室から立ち去ります。後ろで佐太郎の怒号が聞こえます。

休憩[編集]

「カズマさん、今日はこれぐらいにしましょう」。「ふぅ」。一幕物の悲劇を書くという作業がいかに大変かが分かった気がします。桃太郎さんが夜の高座の支度をする間、カズマはちゃぶ台に突っ伏しています。「いえ、これは笑えませんけれど、十分面白い話になりますよ」。資料を見るたびに息が詰まりそうになるろくでもない話なんですが、桃太郎さんの意見は違うようです。「落語でももう半分や真景累ヶ淵みたいな話があります。人間の業の深さを垣間見るような話というのがあるから落語は面白いんです」「はぁ、そんなもんですか」。ちゃぶ台にヒジをつきながら、夕焼けに染まりつつある東京の青空を見つめていると、カズマにもふと思いつくことがあります。「師匠、すいません。来週の打ち合わせなんですが、申し訳ありませんが、一度延期できませんでしょうか」「おや、そいつは急な話で」「いえ、長いこと東京で暮らしたせいで生まれ育った藤沢の話にどうも自信がないんです。せっかく地元の話を入れてもらう以上、一度じっくり調べなおしてからでないとどうも安心できません」「はは、それではしょうがありませんね、では、ついでに横浜の話も仕入れてもらえませんでしょうか、いえ、知らなくはないんですが、あの名探偵の話をもっと膨らませるんでしたら、ダイニングルームとかいう話もそうですが、もっと西洋の話を入れたほうがいいでしょうから」

横浜から藤沢へ[編集]

「・・・食パン、マフィン、スコーンそしてサンドイッチ。海の向こう、イギリスやアメリカではこんなものを食べているのか。15年前の横浜旅行で初めて知った西洋の品物が、今の自分につながっています。外国人居留区がなくなったのは1899年。自分が生まれる以前の話ですが、この地域に根付いた味が、1人の探偵見習いとそしてなぜだか有名な落語家兄弟を結び付けている」。どうもいけない、私がこんなくだらない話を考える必要はないのに。土曜日の午後、桃太郎さんと一緒に仕事をするようになってから、どうしてもこんな話を頭の中で始めてしまいます。ああいうのは本職がやるから様になるのであって、なれない人間が似たようなことをそうそうするもんではありません。それがいいのか悪いのか。いいかげん、横浜で時間を潰しすぎた気もしますが、懐かしき藤沢町の実家へとカズマは顔を出します。

言っておくべきこと。それは、その、なんていうか、まぁ、結婚を前提にしたお付き合いをしている女性の話について、その。で、早い話が、家族血縁関係を通り越して近所の仲間連中を巻き込んでの大宴会に発展したという結末でありました。この親兄弟親戚一同仲間内連中のありがたさと気ぜわしさに私心のなさに感謝を。そして、明日仕事だといっているのに延々とビールをついでくれた極悪非道な連中に天罰を。夕闇迫る中、一族の墓前にかつぐようにされてお参りと現況の報告をした後、終電に押し込まれてカズマは帰京します。

翌週[編集]

土曜日。探偵といえども仕事がなければ半ドンです。キクが作った昼飯をかっこんで、カズマは今日も桃太郎さんの下へといそいそと。「まるで桃太郎さんからキビダンゴをもらったみたいね」。とは、そのキビダンゴを着ているキクの言葉です。風呂敷包みを持ちながら、鬼が島ならぬ桃太郎さんの待つ長屋へ自転車を漕ぎ漕ぎたどり着きます。1時半。待ち合わせ時間ぴったりです。

師匠の家の玄関を開けると、珍しいことに師匠の玄関に、明らかに師匠のものではない上物の雪駄が並んでいます。おや珍しいと思いつつ、カズマは磨り減った自分の革靴から泥を落とします。「ごめんくださーい」「おぉ、カズマさん、待っていました。ささ入って入って」。障子を開けると、茶の間には、なにやら書生風の男性と桃太郎さんが原稿用紙を前にすでに物語の作成を始めています。

「どうも、ごめんください」「いや、お待ちしておりました。ヒライさん。この方が先日お話しました名探偵のカズマさんです」「どうもごめんください。私ヒライタロウという、モノ書きに毛の生えたような存在で、今日はぜひとも本物の探偵さんのお話をお伺いしたいと思いまして、師匠にご無理を言って今日の作業に参加させていただくことになりました」。明らかに困った顔になるカズマに、師匠は一言付け加えます「えぇ、大丈夫です。この方の口の堅さは天下一品、我々がちょっといけないことをしていることもご承知で、この話に参加くださったので、どうぞカズマさんも気になさらずに先々週の続きに取り掛かりましょう」

「はぁ、そうですか・・・」何かもんもんとした思いを抱えつつ、カズマは抱えた風呂敷をちゃぶ台に乗せます。

佐太郎の鼻血[編集]

見抜けない嘘はない。もはや嘘かどうかも自分では分からなくなっている男だとしても。

タカシに頭突きを食らった佐太郎ですが、翌日と、その翌日にはタカシは姿を現しませんでした。オオノ刑事もです。しかし、鼻はずきずきと痛み、そして目の前には愚かな警察がどうでもいい人間の命の大切さをといたり、犯した罪の重さに首を洗って待っておけなどと浪花節のようにうなったり、さらには無言のままただただ時間を過ごしたりと、まるで面白くも無い時間が過ぎていきます。笑いながら自分の犯行を面白おかしく語っても、以前のように楽しくないのは、そう、鼻の痛みによるのです。しかし、そんなこんなで4日目の朝。

「よし、入れ」。手鎖をつけられた佐太郎が取調室に入ると、そこには忘れるはずのない3人ともう1人の顔が並んでいました。

そういうと、タカシはトシオの・・・

「あ、カズマさん、師匠、ちょっとすいません」「おや、どうしましたヒライさん」カズマが取り出した資料と原稿の束に目を通しながらヒライさんが口を挟みます。「いえ、この前の前の章なんですが、名探偵の名前がカズマさんになっていますよ」「え?」

今気づきました。そういえば、師匠の家から原稿を持って帰ってから見直してもいませんでした。「こらいけませんな」「すいません、まったく気づきませんでした」慌てて消しゴムで直します。「師匠がこんな間違いをするなんて珍しいですね」「いやあ、いつもこんなもんですよ、すごいのは兄貴であって、私は世間では愚弟ということになっていますから」「いえいえ、これまでの話にこの部分だけでも、お二方が必死になって物語に取り組んでることがよくわかりますよ」そう言いながらヒライさんは2人の湯のみに急須からお茶を注ぎます。

・・・家庭の中であるならば、鬼畜は鬼畜でいてもいいのか?

タカシから幼い日の話を聞かされて、佐太郎は笑いながらたずねます。俺にはわからない難しい話だってことはわかるよ、そう、きんしんなんとかというやつだ。妹たちは鬼畜の父の犠牲になった。そして、鬼畜の息子はやはり鬼畜だった。俺達の家族は畜生道に堕ちた。いや、堕ちていた。知らぬ間に。気づいたときにはもうどうしようもなかった。ある日、知り合いの家に駆け込み妹たちを助けてくれと叫んだものさ。だが、そいつらには鬼畜をどうすることもできなかった。俺は父をうらんだが、結局、自分も同じだと気づくのにそう時間はかからなかったさ。そして今、俺のおかげであの家も鬼畜も全て畜生道から地獄に堕ちたことが、心底うれしいのさ。

タカシは湯のみ飲み干しました。

「……」

「おっと、すまない、お茶を持ってきてくれ」トシオさんがすっと席を立ちます。

トシオさんのお茶[編集]

トシオさんが台所でお茶を入れていると、担当の刑事が手招きします。「それで、犯人は何かしゃべったのか」だの「家族に対しての言葉は何か言わなかったか」だの、トシオさんもトシオさんで見たもの聞いたものは包み隠さず話しましたが、とにかくオーノさんもウチのタカシさんもまったく反応せずに淡々としていますと語り、そそくさと熱いお茶を持って取調室に帰っていきます。

しかし、わずかな間に取調室は大変な状況になっていました。

怒鳴り声[編集]

トシオさんが廊下を歩いていくと、進む先から怒鳴り声が聞こえてきます。急いで取調室の前まで来ると、その声はタカシさんを散々に罵倒する佐太郎の声でした。驚いて戸を叩くと、一瞬、静寂が訪れます。中からオーノ刑事が現れて、お茶だけ受け取り、トシオさんに「外で待っていてください」そう伝えて戸を閉めます。あっけに取られたトシオさんでしたが、そっと廊下を歩いていくと、やはり狂気に満ちた声が聞こえてきます。

しかし、トシオさんも分かっていました。ついさっきまで笑い声しか聞いたことのない犯人が、今はまるで狂ったかのように大声を上げているということは、タカシさんが何かを伝えたためなのでしょう。しかし、その日は結局、何事もなかったかのようにタカシさんとオーノ刑事は取調室から戻り、何事もなかったかのようにタカシとトシオさんは一緒に藤沢まで戻ります。翌日、再び東京まで出かけようと支度する中で、珍しくトシオさんがタカシに質問します。それは、昨日の取調べ室の話ではありませんでした。さらに言うなら、事件の話でもありませんでした。

トシオさんは、取調べ室の中でのお茶の事情を聴き、でっかい急須を家から持ってくるかどうかを聞きました。タカシもタカシで、お茶の葉の味も出がらしだとそろそろオーノ刑事が気分を害するから、新しいのを買ってこようなどと言います。2人は東京へ出て行く前にトシオの家に行き、持っていけるよう風呂敷に包んであった急須と新茶を抱え、汽車に乗り込みました。

その日、2人は稀代の殺人鬼と最後の勝負に出かけていきました。

虎の子渡し[編集]

「うーん、すごいっ」。ヒライさんが驚きの声をあげます。夕日はかげり、カラスが鳴いて、桃太郎さんとカズマは魂が抜けたようにしてタバコを吸っています。いつもそうです。師匠は物語の盛り上がりを大事にして、自分はその整合性を必死になってとる。これの繰り返しです。自分がこれこれこういう証拠を出せば確実に裁判で死刑になるという話をしても、師匠はそれでは面白くない、といって犯人にも何かを語らせようとします。そして、2人でうなりながら犯人の言葉を考えた後で、それに対する答えを、また2人で考える。しかし、そのほうが物語は面白くなるんですからどうしようもない。カズマは2本目のタバコに火をつけて、最後の最後、ようやくたどり着いた事件解決について思い描きます。

「どうします。今日は店屋物をとって、最後まで一気に書きませんか?」そんな師匠のご好意に甘えることにして、3人は各自、電話を関係先へとつないでもらいます。どうせ今日はキクも仕事。なんだったら、書き終わった後にキクの店にみんなで行きませんかと言ってしまったがために、まさかあんなことになるとは、カズマは想像もしていませんでした。「そうですか、では、私も参加しましょう」それまで見るだけだったヒライさんが加わった結果、見るだけで頭の痛くなった資料がさらにとんでもないことになってしまいます。

タカシとトシオさんが取調べ室に入ったのは午後1時。トシオさんとの昼食もそこそこに見たくもないのに見慣れてしまった凶悪犯の元へやってきます。最後の決戦です。さて、突然ですが、皆様方。ここからは大変にひどい描写がでてきます。もしよろしければ、そのまま解決するところまで飛ばしますがいかがいたしましょう。

そうですね。ここまで話して意味も分からず解決ではワケが分かりませんですよね。では、ご覚悟を。

入室し、椅子に座ると開口一番にタカシが言います「さ、昨日の話の続きだ」すると、佐太郎がにやけた面でタカシに言います「探偵さん。あんた、そこにいる小間使いとやったのかい?」鼻で笑ってタカシは続けます「いや、そんな面倒くさいことをするほど餓えてはいないさ。君の親父のようにね」。一瞬で佐太郎の顔が紅潮します。しかし、何か言いそうなそぶりも見せずにプイとそっぽを向きます。タカシは続けていいます「で、君の話について妹さんから詳しく聞いた結果、昨日、最終的に君は逃げ出さなかったという結論に達したよな。そこで今回もその話なんだが、結局、親父さんがにくかったのか、それとも好きだったのか。そして自分が嫌いになったのか。なんだったら、親父が好きになったのか。まぁ、男色の話なんてのはついぞわからないけれど、君の幼年時代の終わりに果たして君の父親がどんな役割をになったか。話したくなったら話してみてくれ」。

トシオさんは驚きました。そんなことは、タカシが京都から持ってきた資料には一文字も書いてなかったことです。では、トシオさんがいなかった昨日のわずか数分間に、タカシがどんな話をしたのか。それはオーノ刑事と犯人以外には誰も分かりません。しかし、トシオさんにも分かります。タカシがしゃべった事実の中で、確実に犯人は死んでいたのです。それも、幼年期の終わりに。

「タカシ君。どうやら正解のようだ」。オオノ刑事がだんまりを決め込む犯人の傍でつぶやきます。「つまり、イヤよイヤよも好きのうち、それが自分の父親であったとしても」。佐太郎の目は見開かれ、ぶるぶると震え始めます。口からはよだれがたれ、そっぽを向けている中で、明らかにこちらに向かって呪詛をつぶやきます。しかし、それも冷静に聞き流してタカシは続けます。「で、母親と妹が親父の被害を受けたとき、最初、子供心に助けたいと感じていたんだってな。でも、いつのまにか嫉妬してしまうわけだ。嫌いな人間なのに。今日は自分ではないのかと。気にするな、客あしらいが下手な女郎ほどイヤな客に惚れるもんだ。これはどういうことか分かるかね」。

その直後、警察署内部に響き渡った犯人の怒声は、とても人間のものとは思えなかった。そう、関係者は言います。

「はいはい。落ち着いて落ち着いて。君がいくら殺した少女たちを自慢しても、結局のところ、自分がいかにひどかったかという楽しい、そう、こちらにとっては楽しくて仕方のない話に比べれば、どうってことはないさ。私がいえるのは、父親が鬼畜で子供が鬼畜だったら、そこには深い愛情が生まれていても仕方がないという話だ。君が始めて少女を手にかけたとき、そう、竜安寺の裏手での話さ。適当に推理しようか。その少女は親父を愛し始めた君、もしくは親父でもいいさ。で、その少女はそんな二人とは知らずにカマをかけてきた。で、とっくの昔に女性を知っていた君だったが、もし親父を失ったらという思いから、自分の女性への性欲に無理やり濡れ衣をかぶせて、親父への愛を守った。いや、別にあってようがなかろうがそんなことは関係ないのさ。善良な市民を殺してしまった悪鬼羅刹の所業、それがどうしたってことだから。そう、それがどうしたってことなんだ」。

……何か、店屋物でとった鰻重が食道をさかのぼるような話です。カズマも桃太郎さんもあっけに取られながらヒライさんのつむぎだす物語に魂を吸い取られています。

否定[編集]

「その、なんといいますか、これは人としてどうかという話をさらに輪をかけてひどくして、それにエログロナンセンスの面白さをふりかけたような話ですねえ」桃太郎さんも呆然としています。カズマはヒライさんのつむぐ言葉をさえぎりはしませんでした。人間はここまで表現できるのだということがよく分かりました。しかし、どうしても言わずにはいられない言葉もありました。「スイマセン、ヒライさん。私は探偵をやっている身として言わせてもらうとすれば、近親相姦やらシロシロ、クロクロといった話はあくまで物語の中だけであった、それを実際に見聞聞きできるようなことはまずないんです。むしろ、その対象を貶めるために敵方が流すそんなデマゴーグを否定するほうが探偵の仕事です。実際、そんな話を何度も耳にするんだったら、私は探偵をやめたくなりますよ」。ヒライさんは鉛筆で耳の後ろを掻きながらにやりと笑います「ああ、確かに。でも、言葉と内容で人をひきつけるのには、こういう普通の人は知らない、いや、むしろ知りたくないような話を混ぜるというのも一つの手ではあるんです」。しかし、珍しくカズマは強く否定します「はぁ。まぁ、そんなもんですか。ですが、そうした手によって捲かれた種が、変なところで花を咲かせるような話は、それこそ文明開化で新聞や雑誌、さらにはラジオなんてものができてしまった以上、これからいくらでも出てくると思います。鬼熊事件みたいに、3人殺した男が英雄みたいに扱われたり、ましてや警察に追われている犯人を取材している新聞記者が、犯人の自殺を手助けするような馬鹿げた、いえ、バカ以前に、あってはいけない話を、これから連綿と師匠に語り継がせるのは絶対にいけません」「あ、なるほど。確かに、桃太郎師匠の立場ってものがありますよね」ヒライさんは鉛筆をアゴのしたでつっかえ棒にして、カズマの話に納得してくれました。

こうして、名探偵タカシは一瞬、人としてどうかと思われそうな探偵のイメージを脱却し、佐太郎事件の鬼畜、畜生道の話もやめることになりました。

しかし、後年、桃太郎師匠はこのときの話をちょっとだけ変更して酒席で話したそうです。だって、高名なヒライタロウさんの手で作られた話ですから。そのまま忘れ去られるなんてもったいないじゃないですか。

有名探偵カズマ誕生[編集]

職業作家と話術の専門家を前に、大学を出たばかりの探偵の新米が言っていいことと悪いことがあります。ですが、そこはそれ、その両者とも良い人でしたので、カズマのある意味青い話についても一定の理解を示しました。桃太郎さんが言いました「どうです、カズマさん。今日はもう日も遅い。ここは一つ、全員で一度ここまでの筋を検証して、来週、もう一回最後の場面を検討してみませんか?日にちはまたこちらからご連絡しますよ」カズマ自身、微妙な雰囲気にあることは気づいていましたので、その申し出に快く賛成します。しかし後に、この場においてもっとも意地悪でいたずら好きで、雰囲気を自分からこのような形へと持っていったのは、その桃太郎さんだったということに気づいたとき、いつの間にかカズマは新米探偵でありながら一部で有名な探偵へと祭り上げられることになっていたのです。

事件は紙の上だけではなく、目の前のちゃぶ台の傍でも起こっていました。

カズマがお二人に頭を下げて風呂敷包みを片手に自転車で帰宅の途についたあと、ひそかに桃太郎さんの家の前にショウイチさんが運転する自動車が止まりました。

引き戸を叩きながらショウイチさんが中に呼びかけます「先生、お待たせしました」中から、ヒライさんが外装を済ませて出てくると、後ろで桃太郎さんが大きくお辞儀をします。「今日はどうもお疲れさまでした。先生のおかげで、今回の話も随分面白くなってきました。また来週、先生のご都合のよろしいとき、ぜひお越しください」「あぁ、師匠、本職の人との交流はやっぱり楽しかったよ。スケジュールが分かったらすぐ連絡するよ。また、こっちはこっちで色々と調べるものが出てきそうだけど、来週も絶対にこの制作現場に顔を出すことにするよ」「いやあ、先生もお人が悪い」「いやいや、師匠も負けてはいませんよ」

大の大人が二人で含み笑いをする傍らで、実は思いっきり罠にはめられたカズマさんのことを思うと、詳細を知っているショウイチさんも少しかわいそうと思いつつ、二人と一緒に含み笑いをすることになりました。金語楼師匠の発案とはいえ、一介の新米探偵をビックリさせるために、とんでもないビックネームを動かしたものだといまさらながら笑えてしまいます。

そんな三人、いや、四人の思惑をよそに、カズマはカズマでペダルをこぎながら何かいい場面はないかと逡巡しています。「よし、証拠はそろった」「お前を逮捕する」夜道でそんなことを考えて、なおかつ口にまで出したことが、実はものすごく恥ずかしいことだと気づいたとき、もはやカズマは元の場所には戻れなくなっていました。

懐かしの母校へ[編集]

2日後、カズマは懐かしき母校である法政大学へ向かいました。色々と考えた結果、ヒライさんがつむぎだした話をもうちょっとやわらかくするには、文学科の知己を頼らざるを得ないとの結論に達したからです。その文学科の知己であり内田百閒先生こと百鬼園先生門下で、現在も在学中のトシミツに話を持ち込んだところ、無事、懐かしき母校で一読する、サケはこれこれ、ツマミはソレソレとの結論に達したわけでした。この時点では、なんの変哲もない平日の昼下がりでした。

せっかくなので、一升瓶ではなく一升徳利とアジのヒラキを5~6枚ほど風呂敷に包んで文学科へ行き、かって知ったる他人の校舎を突き進んでお目当ての教室へ赴くと、そこにはカズマから見れば青白い顔をした文学青年たちがわんさかと。気にするふうでもなく教室の目立たぬところにもぐりこんで百閒先生のお姿を拝見すれば、相変わらずのご壮健な御ン姿。明らかに学生たちとは違い、こざっぱりとした身なりのカズマをじろりと見た気がしましたが、そんなときのために、風呂敷の中から一升徳利が見えるようにしておきました。トシミツは教室の前ほどで授業が始まる前に一度こちらを振り向いたあとは、熱心に先生の言葉に耳を傾け続けています。

2年前、法学部の分際で推理小説にはまったカズマは、食堂で独文学に面白い推理小説がないといってしまったことがあります。それを聞きつけた文学部のトシミツがワルター・ハーリヒの「妖女ドレッテ」をドイツ語の辞書ごとカズマに紹介。当時、仲間内で誰一人持っていないドイツ語の推理小説に興味を持ったカズマは、わずか1週間で読破した後、シャアーロック・ホームズにはなかった細かい心理描写に驚愕。より物語の詳細を埋めるために、しばらくの間、百鬼園先生の下に通うことになります。文学科のふりをして。そんなこんなで、少しだけ百鬼園先生にも知己がありますが、でも今日は素晴らしい物語を紹介してくれたトシミツが目当てです。そう思っていたのです。

このときまでは。

百鬼園先生[編集]

授業が終わり、学生達が先生を取り囲む光景を目にしつつ、カズマは油紙に包んだ原稿用紙の束を取り出します。そして思わずタバコに火をつけようとしましたが、マッチをどこに入れたか忘れてしまって服のあちこちを叩いていると、前の机からトシミツがやってきます。「改めて、就職おめでとう」「半年ぶりだが、まったく変わってないなこの教室は。で、すまん。マッチを持ってないか」「いや、俺はタバコは吸わないからな。ちょっと待ってろ」そういってトシミツはいまだ生徒に囲まれている百鬼園先生の下へ赴くとなにやらごにょごにょとこちらを指差して報告しています。先生はやはりこちらをじろりと見つめた後、カズマに大声でたずねました「サケは灘かい」「もちろんです」。というわけで、百鬼園先生とトシミツを含めて先生につき従う生徒数人、そしてカズマは大正時代の猟奇殺人に関しての噺を抱えて先生の部屋に繰り込みます。マッチは先生からもらいました。持つべきものはなじみです。

捜査「苦」現場[編集]

翌日の朝早く、桃太郎さんの家にカズマから電報が届きました。「コンシュウシゴトアリソウサクナリガタシ。ヨクシュウニヘンコウネガウ」。あらま。これは仕方がない。歯ブラシを咥えながら桃太郎さんはヒライさんへの連絡をとりに角の電話へ。もっとも、そのとき、カズマは百鬼園先生の家に徹夜で押し込められていて、仕事もそのまま先生の家から直接事務所へ行き、さらに、仕事が終わってからもその足で百鬼園先生の家に向かうことになっていました。すべて、法政大学の独文科にヒライタロウ氏が何者であるかを知っていた人間がいたためでした。1週間、ほとんど家に帰れないまま、先生の家であーでもないこーでもないと若い文学青年たちが一介の落語家の新作のために喧々諤々の議論をする様を、先生は面白がって見ていました。

捜査「苦」現場2[編集]

事件の顛末をめぐって文学部の連中があーだこーだと議論を交わす中、カズマは昼は探偵業、夜は創作の二重生活を強いられます。昼に案件の捜査をやって夜に創作をする生活は、正味5日ほど続けるだけで苦痛になります。捜査苦現場と誰かが言いましたが、まったくその通りだと思います。ですので、キクの店に顔を出せないのと、たまにキクの家に帰っても、ほとんど顔をあわせないまま1週間が過ぎようとしていました。

そんな手持ち無沙汰のキクの店に初めて桃太郎さんがやってきたのは、カズマが電報を打ってから調度1週間目の夜のことでした。「あ、よかった。ここですね」点滅するネオンサインに和服が照らし出されると、桃太郎さんは表通りからショウイチさんと金語楼師匠を呼びに行きます。

キクはそのとき3人ほどのお客を相手にしていました。紫煙に煙る店内では、満州の話や角界の話、そしてレコードを前に市丸と勝太郎のどちらがいいかなど、とりとめのない時が過ぎていきます。ドアが開き、顔を上げて「いらっしゃいませ・・・あら、桃太郎師匠じゃありませんか」「偶然、近くを通りがかったので」「おや、なるほど。新しい店を開拓というのは、同名のよしみだったわけか」「あら、いやだ。金語楼師匠まで。あらいけないわ、マスター、ごめんなさい、ちょっといらして」

こんな場末の酒場に大スターが現れたんですから、誰だって驚きます。「いや、どうぞそのままで。今日はカズマさんはいらっしゃらないのですか」「あらそうですか。いえ、うちの人は・・・いやだ、カズマさんったらこの1週間、まったく家に寄り付かないで大学のお友達のところに向かいっぱなしなんですよ。師匠、何かあったご存知でしょうか」

桃太郎さんはこのキクの発言に言葉が詰まりました。金語楼師匠が興味深そうにたずねます「あれ、カズマさんはどこの大学でしたでしょうか」「えぇ、今年の春、法政大学の法学部を・・・下から数えたほうが早い順番で卒業しましたわ」「あぁ、なるほど。実はこの前、カズマさんと一緒にいつもの創作の場で意見の相違が出まして、今週、その件でまた話合おうとしていたところなんですが、何かカズマさんのほうで仕事が入ったみたいで来週に延期になったんですよ」「いやだわ、仕事だなんて。今週ずっと文学部の友達のところへ泊り込んでいるような状況なんですよ」「ほー、文学部ですか」「えぇ、きっと、師匠が言ったその創作の件で何かあったんだと思います。今度あったらとっちめてやらなくちゃ」「はは、いやいや、これは手厳しい。もっとも、こちらのほうにも原因がありますから、お手柔らかにお願いしますよ。よし、では弟のほうのキク、で、そこの皆さん。何か好きなものを注文なさい」。こちらを見るともなく見ていた三人の客から歓声が上がります。桃太郎さんと金語楼師匠は店の一番高いサケをみんなで楽しみ、長居することなく店を出て行きます。「今後ともごひいきに」。そして、金語楼師匠はショウイチさんに目で合図を送り、ショウイチさんはショウイチさんで、手持ちのサイフからお札を数えることなくつかんでキクに押し付けます。「ささ、今日は福の神ではなく、着るほうの服の神が来ました、ということで。ま、お気になさらずに。もっとも、兄貴には髪がありませんがね」「あらいやだ」そんなこんなで店から出て外にとめていた車に乗り込むと、2人とショウイチさんが一緒になって困った顔をします

「これは、ばれましたかねえ」「まぁ、ばれたな」「先生にはどうされます」「いや、せっかくだから黙っておこう。いいじゃないか、もしかしたら先生の話よりも面白い話ができるかもしれないじゃないか」「まぁ、たしかにそうですけどね」。そんなこんなで夜の道を車は走っていきます。

寝不足のカズマ[編集]

ヒライ先生はヒライ先生で、前回のお茶目なエログロナンセンス路線をしっかりと訂正し、本業にしたがってちゃんと物語として話を帰結させていました。18歳で犯した最初の殺人は、彼の若さが招いたものだったけれど、30歳を過ぎて出所してから犯した一連の強姦殺人は、彼が刑務所の中で思い描いた生き方によるものだと。悲劇に生きるしかなかった男が15年もの間、その思いを改めなかったら、少女達が強姦されて殺されるのも当たり前なのだと淡々とタカシに語らせます。そして、沈黙。しかし、タカシには一つのアイデアがありました。

「オーノさん、昨日お願いしたアレは用意してありますか」「えぇ、台所に置いてあります」「そうですか、ではトシオくん、すまないがコップを三つ用意して持ってきてください」そう言うと、トシオさんは厨房へと駆け足で出向き、氷で冷やされた瓶ビールを4本抱えて取調室に帰ってきます。「手鎖を外してやってください」そう言うと、オーノさんは佐太郎の手を自由にします。「まぁ、足鎖のほうは勘弁してくれ。それよりも、さ、一杯やってくれ。私たちもご相伴に預かるから」

外の連中には絶対に見せられない光景です。さすがにオーノ刑事は飲みませんでしたが、タケシもトシオさんもまるで気にすることなくコップを空け、そして一本空にすると、佐太郎もようやくコップに一口、麦色の液体を喉に流し込みました。2人が気にすることなく2本目を空け。3本目に手をかけたとき、佐太郎もコップのビールを飲み干し、タケシが手ずからコップにビールを注ぎました。

「・・・なあ」。4本目を空け、さらに5本追加で持ってきて、そこからさらに2本空けた段階で、佐太郎がついに自分から口を開きます「・・・本当にうまいなあ」。「そうか・・・。で、どうする?」「そうですね・・・。とりあえず、厠へ行かせてください。ツマミも用意してください。飲みながらお話しましょう。洗いざらい、何もかも」

そんな話をヒライさんは考えていました。だって、酒席において桃太郎さんが話すんですから、このぐらいがいい落としどころだと思うじゃないですか。ですけれども、ヒライさんが一つ見落としていたのは、単なる資料を見せてくれた新米探偵の一青年が、実は交友関係においてシャレにならない連中とつながっており、さらには、そのシャレにならない連中を統括しているのが、文学史に残る変人で、なおかつ偏屈な百鬼園先生だったということでした。

両者の対決は結局、2週間を置いた後の土曜日、またしても半ドンを聞いた後で始まることになります。

ご報告[編集]

眠たい頭を水菓子のすっぱさとあいすくりいむの冷たさでスッキリさせて、カズマは1.5倍に膨らんだ風呂敷を片手に師匠の家へと急ぎます。この1週間は違った意味で地獄でした。昨日、ようやく創作活動が一息ついたと思ってヘトヘトの身で帰ったと思ったら、キクはキクで、この2週間ほとんど帰らなかったことでずいぶんヘソをまげてしまい、その後、カズマはどれだけ謝ったことでしょう。結局、キクに桃太郎師匠のところでの話をすっかり打ち明けることになり、あわせて、百鬼園先生のところでの捜査苦活動を原稿を踏まえて逐一語るハメになってしまいました。今日、半ドンとはいえ仕事があるのにも関わらず。

おかげで、今日のいい練習になりましたが、そんなことを考える余裕はまだカズマにはありませんでした。

ペダルを漕いで漕いでようやくたどり着いた師匠の家でしたが、あれま残念。ヒライ先生はまだご到着していませんでした。

「どうも、お待たせしてすいませんでした」「おぉ、カズマさん。お待ちしておりました。ヒライさんは今出がけに急用ができたそうで、少し遅れるそうです」「なるほど。では、その、ヒライ先生が戻られる前に、一応、原稿を見ていただけますでしょうか」。完璧にばれてます。しかし、穴を掘ったのはこちらである以上、とても詮索できる雰囲気ではありません。仕方なく、桃太郎さんは分厚くなった風呂敷を開いて、添削がされまくった原稿用紙に目を落とします。

あくびと、そしてうたた寝と[編集]

なんとびっくり。桃太郎さんは、数枚の原稿用紙を捲りつつ、内容一新された内容に舌を巻きます。

そう、私は凶器となった手ぬぐいを再び少女の首へと戻したのは、襟巻きを模したつもりで、そっと首に巻いてあげたのだ。冷たくなった彼女をさらに凍えさそうとするよう粉雪のちらつく中、私はたった今、手にかけた少女のぬくもりを忘れたくなかった
いつもの日々でしかない。それで、一体私の何を知ろうというのだろう。刑事の言う話は事実でしかない。しかし、私にはその事実を証明できないことを刑事自身が教えてくれるようにしか見えない。その時間に私がそこにいないという証明は難しい。しかし、その時間に私がそこにいそうにないという状況であるならば、私はいくらでも証明できる。
彼女が恐れなかったが不思議だった。だから私は石で彼女の後頭部を叩きました。そのときも、やはり彼女は笑っているようでした。なんといいますか。あの大震災のときに、ちまたでよく見た表情と同じでした。当たり前のように死があると、自分が死のうというときにも人は笑えるんだと思いました。

「うーん、すごいっ」桃太郎さんは犯人の心境に迫った原稿用紙に嘆息せざるをえませんでした。ですが、やや手持ち無沙汰のカズマは、眠い目をこすりこすり、師匠の一挙一動を伺っていくも、徐々に睡魔に負けようとしています。

その刑事はイスに私を座らせた後、たばこを差し出してくれました。そして、傍らの探偵のジョシュは即座にマッチを擦って火を付けてくれました。一服。探偵も自前のタバコに自分で火をつけて、格子のはまった窓の向こうを眺めています。私は吸い終わったタバコを灰皿に入れると、おもむろに机に倒れ込みます。叫び声をあげて。何度も何度も頭を打ち付けて。彼らは、わかってくれたのです。私のことを。わかってくれたのです。

「えー、師匠。とりあえず、今のうちに白状しますが、この文章は私の手によるものではありません」眠気覚ましの一服をもみ消しながらカズマはもう一本、紙巻タバコに火をつけます。たったそれだけの仕草ですが、桃太郎さんはひそかにうなり、その後の高座や宴会でも、探偵の一服としてちょっとした芸になりました。憂鬱そうな、それでいて真実を知ってしまったことへの少しばかりの喜びを、桃太郎さんは見逃しませんでした。

立教と法政の対決[編集]

カズマが桃太郎さんに事の顛末を伝えている中、師匠の住む長屋の前に外車が止まり、ヒライさんが大慌てで降りてきました。3本目のタバコのほとんどを紫煙に替えていたカズマはエンジン音と駆けてくる足音に、紫煙以外の感情を込めたため息をつきます。そもそも、大学対抗なんていう風潮がなかったら、こんなことにはなっていません。

「いやー、皆さん。遅れて申し訳ありませんでした」玄関先でバタバタとヒライさんが頭を下げます。「いえいえ、私たちも今始めたところです。これからぜひヒライさんの文章と、その、私とその悪友連の文章を比べて、ぜひ桃太郎さんに選択してもらいましょう」眠気眼のカズマの放つ妙な雰囲気に一瞬たじろいだヒライさんでしたが、そこはそれ、にっこり笑ってちゃぶ台の上に原稿用紙を入れた風呂敷を置き、「では、私も」といってタバコにマッチで火をつけます。

「本当のことを申しますと、実は私はその、法学部出身でありながら、独文学の連中となじみでして」

珍しく、頭に鉢巻もせずにカズマは、自前で持ってきた最後のタバコに火をつけて、ヒライさんの原稿に目を落とします。そうです。連中の持ってた雑誌の文章と同じです。仲間内でワイワイと一人の作家に目を付けて徹底的に掘り下げて読み込んで批評して肯定してまた批評する。百鬼園先生は笑ってみている。

「とりあえず、ホームズやレストレード、さらには怪盗紳士というほどではありませんが、連中がどこでこの話に気づいたかをお知らせしましょう」ヒライさんが手を止めてふとカズマを見上げると、そこには探偵1年目とは思えない探偵の姿がありました。

「まず証拠はですね。文学的な話で言うと、ヒライ先生が最初におっしゃった殺害する際に幻想的な視点をはさむ手腕というものが私の仲間連中の中の、そうですね、仮にTとしましょう。こいつは英語も日本語もドイツ語もなんもかんも推理小説であればいいというやつですが、そういった表現方法の作家の中で、近親相姦という話を出せる力量のある人間がどれぐらいいるか、という話から始まったんです。まぁ、そんな話をして連中も最初、題材の持つエログロの部分にだいぶ拒否感を持ったんですが、私の恩師でもある内田先生が、歌舞伎やシェークスピアの名作の中で、いったいどれぐらい近親相姦の話があるかということを笑いながら教えてくださって、それで、その、文学というものの恐ろしさを実感したんですが、今の世で果たして日本の推理作家の中でそんな話をすることのできる、しかも私みたいな若輩者の持ってきた、たったこれだけの資料で、一表現者として真をとった桃太郎さんまで絶句させるような話をほぼ即興で話せる人間がどれぐらいいるか、そんなことで話が進んだわけです」。

「そして、その日はまだその段階で話が止まったわけですが、その翌日にですね、内田先生の下を旧知の編集者の方が訪れた際、その、ヒライ先生の話をなさりましたら、思い切り飲んでいたお茶を噴出されまして、えぇ、その、なんというかまぁ、K社の方です。はい。苗字については絶対に口に出してはいけないと先生に言われましたので、どうかご了解ください、お願いします」

そういうと、カズマはヒライさんの原稿を取りまとめ、トントンとちゃぶ台の上で形を整えると、ふと、気づいたようにして自分の服をばたばたと叩いた後、申し訳なさそうに師匠からタバコを一本拝借します。ヒライさんは困った顔をしながら原稿から顔をあげています。

「というわけで、改めまして、江戸川乱歩先生」。特用マッチから一本引き抜いてタバコに火をつけると、今度は思いっきり煙を肺に吸い込んで、眠気を吹き飛ばすかのように思いっきりカズマは咳き込みました。灰がポトリとたたみに落ちましたが、誰も気にしませんでした。

立教と法政の対決その2[編集]

少々困り気味のヒライさん改め、乱歩先生でしたがそこはそれ、文章でメシを食っている身であり、なおかつこれからの日本の推理小説を背負ってたつとの気概にあふれている身です。にこりと笑いながら「では、改めまして」と、カズマに座礼をした後、今度は正座でカズマの持ってきた原稿に目を落とします。

そこには。カズマと桃太郎さんが組み立ててきた物語とはまったく別の捜査が描かれておりました。

佐太郎を前にして「狂人という存在と常人を隔てるものは、実は何もない」そう言って、タカシは日本の古典芸能に残る様々な狂人の生き様について語ります「人間は普通に生きている。狂人もまた普通に生きているんだ。だから、その普通を掘り下げない限り、我々にも、そして本人にもソレが何かはわからないのさ」
京都の冬。底冷えする家の中にぬくもりはなく、ただ、薄く切れかけた布団以外に、暖かさという存在は家人のそれしかなかった。憎く、憎悪した父でありながら、夜、凍える中で家族が1つに抱き合って眠った日々。その暖かさの記憶があなたを狂わせた。あなたは、それが何かを知りながら女人にそれを求めた。求め続けたんですね。

ここまで読んだ段階で、桃太郎さんは噴き出しそうになりました。なぜなら、落語の小咄そのままの話です。思わず、口中でつぶやいてしまいます「あら、やだ。そんなに嫌いだってんなら、なんであんなロクデナシの亭主と別れないんだよぉ」「・・・だって、寒いんだもん」原稿から顔を上げると、カズマもニヤリと笑い返します。寄席通いの面目躍如。文学部の連中が唸った一文は、実は落語からきたものでした。

佐太郎に近しい関係者によると、彼は刑務所でもけっして冬の夜は一人になろうとせず、一度、禁を犯して独房に入れられたときなぞ、一晩中眠らずにブツブツと独り言を呟いていたそうです。そんな話がオーノ刑事の口からこぼれます。状況証拠としては十分ではありませんが、さにあらん、といった具合です。

を持ってきました。

「この中に何本かビデオがあります。ご覧ください」

その中では、シュウイチがトシタツにエミへの強姦を命令しているものがあり、また別のものではシュンイチがエミに殺された時にはトシオのせいにするように言っていました。さらに別のビデオでは、トシタツがエミを強姦している映像がありました。

「そして、これがエミさんの着物、あと別の場所でエミさんに残っている指紋も調べたのですが、いずれもトシタツさんのものと一致しました。また、目撃情報などから、シュウイチさんがトシタツさんに、そのビデオの時間に、その場所で、何か接触していたのは間違いないようです。どうです。お2人さん、犯人はあなた方でしょう」

2人は、わらいました。

「ははは。その通り。我々は風俗関係者が少なくて、困っていたのじゃ。だからトシオに罪をかぶせて、一気に追い詰めて、入れてしまおうと思ったのじゃ」

「それは違うな、お前たち」

「あなたは……」

現れた謎の魔法使い[編集]

西の国で有名な魔法使いトシタカが、やってきました。

「それは別の宇宙人の仕業じゃ。わしには超能力があるから分かる。彼らは他の地球人に姿を変え、指紋をコピーする力を持っておる。そして、彼らはシュウイチとトシタツに自分たちがしたというように脅した。そうだろう」

「……はい」

2人は言いました。

「何?」

ショウイチは疑いました。

「まったくこれだから人間どもは困るのじゃ。俗人にはいくらあがいても真実は分からない。勝手に暴力を正当化するな。わしらの言うことを聞いていればそれでいい。子供の時の純粋な感性があったのに、いつのまにそういう大バカ者になったのじゃ。天罰を与える」

そういうと、トシタカは両手を上に挙げました。トシタカの身体から光が出、両手から光が天に向かって伸びます。

そして、両手を地面に向けて、下ろしました。

ピカドロドロ。

「ぎゃあ」

雷のようなものが、刑事たちを襲い、彼らを焼き殺しました。

ショウイチはイスの後で驚いて震えています。キクは攻撃現場から離れていたので、とりあえずは痛い思いをしませんでした。

「おい、そこの坊主。お前は悲しい経緯があるそうじゃな。わしは親切だからな。最後に言いたいことがあれば言うがいい」

そういうと、カズマは、隠れているイスの裏から出てきて、言いました。

「キク。俺は実はカズマだ。もうプラネタリウムを見に行けないのが残念だ。愛しているよ」

カズマは言いましたが、キクは、

「あんな無実の人を犯罪者みたいに言うなんて最低。俗人なんかと付き合う気はないわ。別れて」

と言いました。

「そんな」

カズマは落ち込みます。

「では時間だ。カズマ、君には消えてもらう」

そういうと、トシタカは右手を広げて前に突き出しました。やがて緑色の光の玉ができました。

一部に有名だった探偵の最後[編集]

禍福はあざなえる縄の如しといいます。泥沼の南方へ行くことを免れたカズマを待ち受けていたのは、あの日、帝都を襲った運命のサイコロでした。そして、それがカズマのもとに投げられたとき、他の20万人と同じ目が出ました。

つまり、そういうことでした。

昭和20年3月10日、折からの空襲警報にカズマは4歳になったわが子シュウイチを連れてキクの店に向かいます。眠い目をこすりながら父の背中におぶさる子供に防空頭巾をかぶせると、火の粉をよけるためにねんねこ半纏かぶってカズマはキクのもとへと走り出します。キクの店にたどりつくとしかし、空襲に逃げ惑う群集の中、3人はまったく身動きがとれなくなり、ただただ群集と一緒に右往左往することになります。どこを向いても炎。夜空は赤々と照らされ、熱気で目を開けることもできません。いったいどれぐらい逃げ惑ったでしょう。両国橋の袂でわが子を背負ったカズマは、ついにキクと手を離してしまいます。その直後、キクの目前で焼夷弾が爆発しました。「うわあ」。それがカズマの最期の言葉だったかは分かりません。ただ、その後、カズマとわが子を見たものは誰一人いないということです。キクさんは初めての子供と夫を同時に亡くしました。何よりも苦しかったのは、初めてのわが子の写真を残すことができなかったことでした。

その後[編集]

「では、キクさん。今日はこのへんでお開きにしましょう。気に病むことはありません、あなたに罪はないのですから。シュウイチとトシタツには、カズマの件について私のほうから一応連絡しときます。まぁ、悪運あって国内に配備された連中ですから、多分、今でも生き残っていると思います。うまいことやれない私みたいなのは、どうしても海をわたるはめになりますね」。

地獄の中国戦線からついこの前帰ってきたトシタカさんは、しかし、今でも銃弾が右足にめり込んだままでした。そのため、運良く空襲を免れたキクの店の中、松葉杖の傷痍軍人と目を真っ赤に腫らした女、これがもし夜だったら、やっぱり酒場という情景だったのですが、今は戦争中、ほとんど何も残っていない店内で、命のある無しで話すには限界があります。「では、私はこれにて」。そういって立ち去ろうとするトシタカさんをキクがとめます。

「ちょっと待って。もしかしたら、顔なじみと一緒に話すのは今日が最後かもしれないんですから」。そういって、キクは流しの下から、本当に最後、最後の最後まで残していた一本のブランデーを取り出します。

「どうぞ。もう、この酒場にはこの一本しかないんですから。もっとも、特高警察が来たとしても、何も怖くはありませんわ。むしろ、男と女が2人っきりで話をしているところに乗り込んでくるんだから、そちらがお縄にかかるような、なんて話になりかねませんわね」。

「ありがとうございます。本当にありがとうございます」。そういうと、トシタカさんは涙ながらに亡くなった可能性の高い彼女の夫の遺影に一献傾けます。その最後の写真の前で、キクは生き残ってくれたトシタカさんの優しさに突っ伏すと、ただただ肩を震えさせます。しかし、無常にも、また東京に空襲警報が鳴り響こうとしていました。

堕落せぬ人堕落する人[編集]

しかし、結局、最初の約束は果たされませんでした。シュウイチさんとトシタツさんは、それからまもなく、新型爆弾が炸裂した広島の町で救援活動を行った際に、原因不明の病であっという間に死にました。それが、恐るべき放射能によるものだと分かるのはだいぶ後になります。それでもトシタカさんが言うには、彼らはあの後に起こったことを見なくて幸せだっただろう、ということでした。世の中には敗戦と戦後を知らずに死んだ人は幸せだったと思う、そんな風潮がまだ残っていました。ちなみに、両者ともサカグチアンゴが嫌いでした。

東京裁判で日本人の罪が次々と裁かれていたある日のこと。久しぶりに晴れた街中を一人の中年男性が変わり果てた姿で変わり果てた東京へと帰ってきました。昔々亭桃太郎師匠は、地獄の中から生還してきました。命が助かって満足。しかしながら、心は、どうしても元には戻らないだろうと兄である金語楼師匠は諦めています。死ぬか生きるかの戦場で、見てはいけない人間の生きる姿を知るということは、結局のところ、言葉を扱う人間に言葉にできない何かを見せ付けたのと同じです。

その後、桃太郎師匠は泣かず飛ばずのまま、一生を終えます。本人も、金語楼師匠もまた、それを受け入れるしかありませんでした。2人とも度々キクの酒場を訪れましたが、あのにこにこと笑ってお酒を飲んでいた桃太郎さんが、まるで何かにとり付かれたように酒をあおる姿をキクも金語楼師匠も黙って見守るだけでした。

残されて[編集]

キクはその後、語るべき言葉もない別の世界の人と結婚して、慎ましやかですが幸せな生活を送りました。一方、たった一人生き残った「魔法使い」の関係者トシタカさんは、終戦後に、文芸雑誌の編集者として活躍します。顔なじみのキクの店にも、それから、同じく顔なじみの金語楼師匠との付き合いもヒライ先生との付き合いも大切に、終戦直後から当分の間は、作り手側、その後は実際に書く側に回り、雑誌制作のイロハを知る書き手として、多くの新鋭の雑誌の創刊に立会い、主に人間関係の問題を解決。もっとも、作品のほうは、雑誌の主役としては力不足でしたが、それでも小さな表現の種を多くの人に捲きました。日本の文学界の裏側から力を発揮していったということです。昭和50年代の末に、食道がんで亡くなったときは、新聞の片隅にひっそりと名前が載る程度でしたが、最後までキクを初めとした知己との交流を忘れず、愛読者や若手の作家、編集者たちとの喧々囂々の議論は、酒席での常でした。その話は機会があれば、お話しましょう。

今でも、キクさんは一人でカウンターに座っています。年齢には似合わない強い洋モクを吸いながら。あの日、最初の夫と、この酒場を訪れた人々と、そして新しくこの酒場を訪れた人々と一緒に。この2つの時代を隔てているものは時間ではなく、一人生き残った自分の人生だと分かっています。今、テレビの画面でニュースが伝えるには米国では、クウェートに侵攻したフセイン政権を倒すために大規模な軍事計画を侵攻させているそうです。きっと、またあの日と同じ、爆弾と飛行機を持ってして解決をはかるみたいです。

人類への犯罪を捜査する時代がもう少しで始まろうとしていました。けれど、そんな思いをキクさんは感じていたでしょうか。誰もわかりません。60年前のあの日、最初の夫が仲間達と一緒になって有名な推理小説家を出し抜いたという話は、生き残った桃太郎師匠も金語楼師匠も酒の席で楽しそうにしゃべっていましたし、キクさんも時々、楽しい昔話として酒場を訪れる人たちに語りました。けれど、それはもう幻です。だーれも生きていません。30年前に師匠たちが相次いで亡くなり、トシタカさんも10年前になくなりました。その後、ときどきこの話を語っても、聞く人には単なる婆さんの笑い話。いかに真実だとしても、あんな高名なお方がそんなわけはない、冤罪だ、ということになりました。最初は少し怒っていたキクさんも、今では、それでいいんだと思うようになっています。テレビでは、石油の値段に注意しなければならないかを語り、戦火に苦しむクウェート人の声を拾っています。きっと、この話を使って、正しい戦争に突入していくことになるのでしょう。

閉店間際の客が言いました。このニュースを録画して、今度生まれてくる子供たちに言い聞かせるのだそうです。壮大なバカ話として。そういえば、この店が出来てから変わらないものがあります。文人の客層は、世の中をいつまでも皮肉に見つめています。キクさんも最後のタバコを灰皿に擦りつけ、流しで今日使った食器を洗い始めます。おしまいにするのは、いつだって書く側です。書かれる側と残される側は、いつまでも残り、いつの間にか消えていきます。

昔、そんなばあさんがいた店があった。結局、この言葉もいずれ消えていくのです。