UnBooks:4コマよみに与ふる書

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独自研究:この記事や節の内容は独自研究であるとする見方もあるようですが、ここアンサイクロペディアで笑いを取るためには自分のアイデアを記事に注ぎ込む事が不可欠です自己言及的なページにならない程度に我が道を突き進んでみてください。

4コマよみに与ふる書(新米編集者に是非読んで欲しい4コマ漫画における数々の約束事)とは、どこぞの正岡子規が平安期以来連綿と続いてきた短歌の世界を全否定した「歌よみに与ふる書」を、とりあえず名前だけパクって至極かってにクソ面白くない4コマの陥っているドツボについて説明する。

なお、編集者の質の劣化がそのまま作品の面白く無さにつながるわけではない。ただ、勢いだけの「4コマ漫画と言いたくないレベルの4コマ漫画」を読まされる身にもなってみろ、というただそれだけの話である。

概要[編集]

そもそも、漫画というものが、創造主たる漫画家だけの力で出来ているなどと考えてはいけない。創造されたものを与える「読者」がいなければそれは単なる落書きでしかなく、それを掲載する「雑誌」が無ければ、知らぬ人間にとって単なる点と線と面と言葉でしかない。

そういった表現の場を形成していくことに、多くの人間が命をかけた時代については語らない。

しかし、そういった積み重ねがあったことで、2011年現在、世の中には漫画があふれ、エロはともかく漫画そのものを排斥するような動きはついぞ起こらず、さらに、次代を担う子供やら、海を越えてまで日本の漫画の名声が広まりつつある中、実に残念な話がある。とても残念な話がある。

4コマ漫画の質が堕ちている。がっつり、堕ちている。わざわざ落ではなく墜の字を使いたくなるほど、堕ちている。

この記事では、4コマ漫画の質の低下の原因と、その解決方法を語る。いくつか語る。その4コマ漫画の質を、本来ならば命がけで維持せねばならない編集者に向けて語る。

編集者への助言[編集]

世界で一番最初か、もしくは最も早い段階で作品に目を通すことになる読者が編集者である。そのため、作品の持つをマトモに受ける立場である。けれど、それはすなわち、作品の持つ生命力を一番最初に踏み潰せる立場でもある。この項目では、そういった編集者に対する皮肉アドバイスと、恨みつらみを適当に記載する。

後世に作品を残せなかった編集者には恨みツラミを。後世に作品をあえて残さなかった編集者には盛大なる拍手を。

あとがき[編集]

4コマ漫画を長年にわたって愛読している読者にとって、「編集者にとっての勝利の一瞬」と呼んでも差し支えない、そんな一瞬がある。

それは、単行本のあとがきに、作者から感謝の言葉をささげられたときである。これは、若手漫画家の初の単行本などによく見られ、読者にとっても、そして編集部にとっても素晴らしいと思える一瞬である。しかし、2000年代初頭から2010年代にいたるまで、そんな話がヤケに少なくなってきている。これは、若手漫画家がいっぱしの漫画家に化け、編集者からの助言を得なくても十分商品価値を持つような話だけだってんならまだいいのだけれど、明らかにそうでないのも多々出てくるようになる。

一例を挙げるなら、序盤、期待の新人が現れたと有名になった直後、あんなに面白かったのにいきなり物語が失速。読者も混乱したままグダグダで終了。そんな話が2000年代後半より、いつの間にか多く見られるようになる。これは結局のところ、ネタギレの作者を無理やりに走らせようとした編集部の失態である場合と、作者のストレスやら体力的な面での執筆活動のレベルの低下について、上手いことバランス取れなかった編集者の失敗である場合がほとんどである。そういった話の後であとがきに感謝の言葉を残されようったてそうはいかない。むしろ、名前を残されたほうが逆の意味で恐ろしい

ちなみに、そんな恐ろしいあとがきは現実に存在する。

あわせて、編集者にとっての完璧な敗北の一瞬についても付け加える。

それは、担当替わったら作品の人気が爆発。もしくは、作者が他の雑誌に移ったら、そこで天下を取る。そんな話が出たら、そらあ確実に編集者の力量不足と、編集部の才能の読み違いの証明である。もっとも、ちゃんとコミュニケーションをとっていたり、助言やらなにやらでバックアップをしっかりしておけば、天下を取った後に帰ってくることもある。

・・・そうしなかったせいで、2度と戻らないこともある。心のそこから具体的な作品名を出したい部分であるけれど、血涙をこらえつつ、ぐっとガマンする。

4コマ漫画の技法[編集]

この項目では、面白い4コマに見られる素晴らしい表現について紹介する。てゆうか、それぐらい知っとけという話であり、こんな話にすら気づかないってんなら、なんのために編集者やっとんじゃぼけえという話である。

あわせて、嬉々として好みの4コマ漫画を解剖する。

オノマトペ[編集]

オノマトペ(擬音)の使い方をマズ最初に持ってきたのは、単に手元にあったのが「晴れのちシンデレラ」(宮成樂)だからである。

この作品の大きな特徴は、オノマトペ及びフキ出しに入らないセリフの威力がシャレにならない。もし、この配置の妙について、天性の感覚で為しえたというのなら、それは相当に称賛すべき話になる。けれど、初出がまんがライフMOMOである。2011年11月現在、竹書房の4コマ漫画誌でありながらアニメ化される作品続出のアノまんがライフMOMOである。そのため、確実にやり手の編集者が作者と一緒になっていい仕事をした、と思われる。

実際、オノマトペで使われる言葉には、一目見て時間やら天候やらなにやらといったイメージを、一瞬で読者に刷り込む力が存在する。そのため、作品内のオノマトペの種類や、配置の仕方、何よりもを見るにつけ、作者の力量と編集者の助言力が丸分かりになる。なお、ここであえて質をクローズアップするのは、一見単純なオノマトペにも様々な種類やら技法が存在しており、中には上記の「晴れシン」のように一目コマを見て噴出さざるをえない、大変な破壊力を持つオノマトペが存在するためである。あわせて、オノマトペを使用する際に集中線とのかぶり具合やベタ塗り及びコマの外へはみ出すような用途といった漫画の見せ場になる技法には、作者の力量もそうであるけれど、編集者の力量もまた丸分かりになる部分であるため、「雑誌のトップを飾る4コマ」と「見ていて何かおかしいと感じる4コマ」において、オノマトペを見比べるだけで、作者の力量はともかく、編集者の力量の明らかな差がよく分かる。

第一、「細線」を使用した「手書きのオノマトペ」を使用する場合、ちゃんとした「デッサン」かつちゃんとした「デフォルメ」で表現しないと、読者に作者の字が汚いと思われる。ヘタな絵にヘタな手書きは作者の味として受け止められるけど、なぜだかオノマトペみたいにでかい形状で「文字」を表現する場合、少しでもおかしければ作者の文字が汚いとのマイナスのイメージを与える可能性が高くなる。そのため、作者のその後を思う力という点で、編集者の立場がまずくなる。そういった点に気づけない編集者としてもマズくなる。いやはや、そーとーまずい。

たかが擬音、されど擬音である。

靴と靴下[編集]

さあ次は「せんせいになれません」(小坂俊史)だ。

この漫画に数多くあって、多くの4コマ漫画にないもの。それは、「キャラクターの全身」か、もしくは「すねから上」を描いたコマである。実際、2011年現在、キャラクターのもしくは靴下を描くような4コマ漫画はとても少なくなっている。これは、コマの枠をテレビ画面かもしくは映画のスクリーンに見立てればよく分かる。つまり、昨今の4コマで大人気の顔のドアップにキャラクターの胸から上しか描かない風潮は、例えるならば笑っていいともテレフォンショッキング、もしくは日本の話芸落語やら講談を見るように、主に会話で魅せ、主に言葉を表現することが主になっている。そのため、靴や靴下が描かれるような全身を使った動きが表現されることが、多くの雑誌内で、この10年間で極端に減ってきている。

ちなみに、こういった全身を描くという技術は、元々は新聞に掲載する4コマの技術が原点とも言える。新聞の片隅に顔だけのコマが並んでいたって、そう簡単には読者の耳目を集められないため、なるべく、なるべく靴下を描くようにして、キャラクターに大きな動きをさせることで、まず読者に読んでもらうという関門をクリアすることが新聞連載という話においては重要になる。

けれど、4コマ雑誌や単行本ではそういったゲートが最初から取っ払われているため、えてして、顔のドアップや胸の上だけの人間関係が描かれ、それが延々と何ヶ月も続いたとしてもそれはそれでいたしかたない。

面白ければ

ただし、もう一つ、靴や靴下といった要素には、全身の動きを使った笑い以外にも、大変に重要になる部分がある。それは、雑誌でも単行本でもなんでもざっとページを開いて、その先にある2ページ4×4=16コマの絵を眺めてみて、同じよーなコマが雑然と並ぶよーでは、いろんな意味でガクっとくるという話である。たとえネタが面白くても、ガクっとくる。

とりあえず、2ページ16コマの中で、同じキャラのアップのコマが4つを超えた段階で、編集者にツッコミを入れたくなる。

まぁ、それでいつまでも笑えるのならいいんだけれど、そうやって同じ構図で同じ様式のネタが繰り返されると、いいかげん、作品そのものの質が低下していくのが丸分かりになる。つまるところ、「どこかで見たことのあるネタ」になる。これが、先月見たか、単行本で見たぐらいならまだいい。同じ雑誌内の違う作者の作品で見た同じ雑誌の同じ作者の前のページで見たというのは正直キツイ。作者の表現力が低下しているんじゃないかとか、編集者のアドバイスが全然ないんちゃうか、という疑心が出てくるぐらいきつい。で、こりゃまた同じような構図、同じようなネタ見せの手法が氾濫しまくってるんだわ、うん。

作品を活かすのがネタだとするなら、作品を殺すのはネタがかぶることじゃげな。

そのぐらい、顔のアップ&言葉オンリーでネタを構築する4コマの構図が多すぎる。その結果、いつまでたってもキャラが全身で動きを表現するサザエさんにおける長谷川町子のセンスの凶暴なる破壊力はいつの時代も衰えることなく維持される。ゆったりとキャラの全身を見せる水木しげるの作品が、卒寿を迎えてなお、とてつもなく生き生きとしてくる。孤高なる植田まさし氏・・・については、確実に他のネタで使うので、置いておく。

まぁ、ありゃ化け物じゃげな。

あわせて、「せんせいになれません」において、こういった他作品と同じような構図はほとんどない。むしろ、他作品でおなじよーなコマに同じよーな構図が繰り返される限り、ほぼ無双である。そらあ、小坂先生が4コマ漫画の時代を担う4コマ王子と言われるようになるわいな。逆に言えば、同じような構図の同じようなネタが、いかに多くの作家を弱肉強食の蟲毒のツボにたたっこんでいるか、という話にもなる。

ちなみに、こういった全身の動きを使った4コマは、1970年代から80年代にかけて、いわゆる4コマ雑誌黎明期によく見られた手法である。それどころか、フクちゃんノンキナトウサンといった大正時代から連綿と続く手法でもある。それがどーしてこーなったかというと、まんがタイムきららが出たからこーなったということである。何よりもきれいを求める読者が何よりもを求めた。そして、美しさを重視する以上、全身を簡略化して大きな動きで笑えるネタを描くという行為は、顔のドアップで会話オンリーでネタを組み立てるよりも、少々負担が大きかった。

世の中、そういった少々の負担によってあっという間に単純化する。文化ごと単純化する。

文字数[編集]

竹書房、竹書房と続いたので次は芳文社に。

というわけで、今回は「みそララ」(宮原るり)を選択。この作品は前の項目で、さんざっぱら愚痴をこぼしていた、会話がメインでキャラの動きがさほどない作品である、にも関わらず、芳文社の4コマ雑誌の最高峰であるまんがタイムに新人ながらいきなり抜擢されて普通に人気を得、長期連載中である(2013年にアニメ化される恋愛ラボの宣伝の為に現在は休載中…という名の打ち切りという説有り)。むしろそれで当然。ごく普通。で、その大きなステップアップの鍵となり、他作品と大きく違う要素が、なんといっても情報量。4コマ漫画にもあるまじき、情☆報☆量。

情報量。端的に言えば文字数。何よりもその情報をコンパクトにし4コマ内及び1話8ページ内に収めるための技術技術技術。

普通、ここまで伝えたいという想いが強く、さらにその情報量がとんでもない場合、えてして描き込みすぎの自己満足すれすれか、もしくは読者の許容量軽くオーバーという情報量過多な見苦しい作品になってもおかしくはないのだけれど、幸い、作者も編集者も、そんなドツボを避ける術を心得ていた。

せっかくなので、この作品に見られる、コマ内に詰め込む情報量を増やす技術を紹介する。

まず、題名を取る。そうすればわずか数ミリでもコマの大きさが増える。次に、コマからはみ出させる。4コマ目の下に5コマ目に当たる文字、もしくはキャラの言葉をくっつける。なんだったら、他のコマでもコマの側にくっつける。フォントよりも小さい文字を手書きでコマに差し込む。これだけで、まったく情報量が変わってくる。次に、メインキャラクターをの3つ、できれば極小も含めた4つ用意して、コマ内にみっちり説明文が入る場合は、普通の会話で説明する場合は、コマの外に付け加える場合や3人以上の会話でコマを埋める場合は極小といった形で使い分ける。こういった小さなテクニックで増える情報量は、決してバカにならない。

で、そういった情報量を増やしつつ、も一つ重要になるテクニックが、空白を使うこと。上手に、空白をつかうこと。



というのも、伝えたい心が大きすぎる伝えたがりがはまり込む一番の落とし穴が、空白を怖がり、全てを埋め尽くそうと努力してしまうことだからである。全部埋めたところで、伝わるものも伝わらんけれども、えてして、全部伝えられると錯覚してしまうことが、空白、もしくは空間への恐怖につながる。とゆうても、まあっしろな部分がいかに目にも精神的にも一拍を与えることができるかなんて話は、伝えたくて伝えたくてしょうがないときになんざ、普通ならば気づかん話であるけれどもさ。

伝えたいことは伝えたい人に合わせて伝えないと伝わらないという話です。

とどのつまり、全部全てなーもかも埋めて埋めて読者の眼も精神も混乱させ、この作者大丈夫かいなと心配されるより、空白を丸々駆使するほーが、読者に「作者のよゆう」を感じさせて、作者を信頼させることにつながり、より情報を伝えやすくできるよーになるてえ話です。読者は作品の絵やら文字やらだけでのーて、作者自身も見てるちゅーこってす。

。しかし。されども。ほんとーに。それ以上に。

このようなテクニックを使って増やした文字数と作品を活かすも殺すも、編集者のセンスにかかっている。なんせ、普通の場合だと、みそララレベルの「大量の情報」を、「伝わりやすいキャラ」で、さらに「伝わりやすいストーリー」に沿って、さらにさらに「伝わりやすい設定」を駆使することで、「伝えづらい内容」ですら臆せずに立ち向かうなんて話は、確実に作者一人では無理。なんせ、普通なら、最初の関門である読者に伝えやすいキャラづくりだけでも大変な話であるわけで。一歩一歩読者の反応を見ながら確かめながら進まなければ、作品も作者も読者も育たない。

こういった話については返す返すも編集部の質や編集者の持っている引き出しの数が問われる。やーな話だけどもさ。

次代[編集]

さぁ、次は多分誰も予測していない「とーこん家族」(よしもとあきこ)。胸を張ってとーこん家族。

なお、この項目はけっこーえぐい話をします。そこのところをご了承ください。

この作品は、まんがライフで1988年に連載を開始した後、まんがライフオリジナルに1996年に移項し、その後2011年現在まで延々と連載を続けている。この作品は、竹書房系列の4コマ漫画ではいがらしみきおぼのぼのに次ぐ長さを誇っており、主要4コマ漫画誌全体で見てもトップ10に入る長期連載を継続中である。

その作風は、まさに1980年代のかほりにあふれ、4コマの中を各キャラクターがドタバタと動き回り、現在の4コマで主流の登場人物のドアップなんてコマはほとんどない。会話で笑わせるよりも、動きで笑わせることがメインの作品は、正直なところ、おっそろしいほどネタ切れを起こしにくい。ただし、飽きられるのも早い。これはどうしようもない。しかし、初見の人間にとっては、何も情報がない会話オンリーの作品群よりも確実に食らいつけるという利点もあるため、こういった作品が連載され続けていくかぎりは、小学生や中学生といった若者にも、4コマ漫画を描いてみたいという意識を萌芽させやすい。

・・・などというてみたところで、平たく言えば、絵がシンプル。ちょっとヘタ、という話につながるわけだけれど。ただし、作品には奥行きが存在し、多くのコマで背景も描きこまれ、何よりも、表現方法の多さは現在主流となっている会話文オンリーの諸作品と比べて、まさに天と地と言える。もっとも、スラップスティック(ドタバタ劇)の歴史を知ってる人間にはごく当然。まったくもって当たり前。だって、それこそが、コマをスクリーンにしてチャップリンやらバスター・キートンの映画やらなにやらで使われる古典的かつ現代にも通じるテクニックをやることのできる表現なんだから。

そらあ視点が一方向の作品では分が悪い。

ちなみに、映画と4コマの表現方法について補足するなら、小津安二郎黒澤明といったビッグネームの映像の中に、どれぐらい4コマ漫画にも転用できるネタが隠されているかについては深くは述べない。一歩間違えることで、いかようにもコメディに転用できるが隠されているけれど、それを掘り出せるかどうかは、作者もしくは編集者のセンスによる。なお、そういった表現方法は、アップだけでは無理。引いて映す部分を見せてこそ映える。

ま、なんにせよ、てきとーな戯言だ。で、ここからが本題だ。

1990年代後半から2000年代にかけて、そういった小難しい映像的なテクニックが打っちゃられ、単純明快なドアップ会話オンリーの表現が席巻しだした4コマ漫画誌において、そういった内容を好む人々が多くやってくるのは、いたって普通の話である。悪くはない。いや、まったく悪くない。けれどもさ、洗練されてひじょーに洗練されてるんだわ。いろんな部分が。

洗練しすぎてるんだわ

で、問題はだ。とても美しいきれいで見事なとても真似できないよーな4コマばかりを見た子供達が、次の時代、4コマ漫画を支えると思うか?自分で書いてみたいと思うか?小学生の頃からまんがタイムで育った女子高生が、ヘタはヘタなりに漫画を投稿し続けてついに連載を獲得、最終的に20年、4コマの世界を生き抜いたなんていう秋吉由美子さんのような話は、大人にしか分からない4コマ漫画雑誌の中から出てくると思うか?

一部雑誌でそれは出てくることは間違いない。けれど、子供を完璧に排除している作品しかのっけてない雑誌も多い。ちなみに、毒のある笑いは子供にも受けます。[1] が、小難しいストーリーや登場人物同士の馴れ合いなんてものに子供らが影響を受けるかどうかといわれれば、激しく否と答えざるをえない。多分。事実、これから先の購買層の先細りが目に見えるようで、心底困る雑誌が多い。

・・・とりあえず、そんな話をしたくなる現況にちょっとだけひびが入っており、まんがくらぶにおいて、昔懐かしい、フキだしの中身に各キャラクターのセリフを入れて楽しい2コマ漫画を作ってくださいという、読者参加型の企画が読者の人気を得ている。作品に感化され、表現したくてしたくて仕方ない読者をひきつけるページが存在するのは、やはりいいことである。

もし、なんでこんな面白くない企画をやってんだと思った編集者がいたとしたら、そいつぁ先の見えないトーヘンボクだ。

一拍[編集]

ここで、一つ昔話を挟む。

1980年代半ば頃の4コマ雑誌には、ごく当たり前に下ネタが存在していた。現在もスポーツ新聞などで活躍する神保あつし氏などが連載を持ち、普通の4コマでも性の話題についてのハードルが軒並み低かった。この傾向は、現在も入手が容易である植田まさし氏のかりあげクンフリテンくんなどでも確認できる。しかし、そういった各雑誌の連載内容を大きく変える出来事が起きる。

それは、主に男性サラリーマンが主体だった購買層が家庭を持ち、子供が成長し始めたときに、そういった内容が忌避されるようになったため、徐々にではあるけれどもそういった内容の4コマが排除されていき、ファミリー向けの内容が席巻しだすことになる。

しかし、世の中から下ネタが消えるわけがない。下ネタを含む4コマは、それこそ成年雑誌やスポーツ新聞といった世界で確実に生き延びることが分かっていた。

本当に問題なのが1980年代半ば以降、本当に、本当に消えそうになったナンセンス系の4コマのほうである。いわゆる、谷岡ヤスジ氏を筆頭にした表現の極地を窮めるがごとき作品は、確実に読み手を選び、なおかつ編集者にとっても「面白いか面白くないか判断が難しい」という大変に扱いに困るものだった。そのため、2000年以降にまで生き残っている4コマ作家陣は、本当に数えられるほどである。けれど、いがらしみきお相原コージ吉田戦車大橋ツヨシといった作家陣の持つネタの生命力と主線の太さは、とりあえず、後世に残さないとまずい。本当にまずい

けれど、ナンセンス系の4コマというのが、実は恐ろしいぐらいに作家の生命力を削ることを思うと、そう簡単な話でもない。何がおもしろいのかわからない世界から何かを削りだして面白くするという作業は、面白いものを書けば面白くなるという世界とは根本的に違う。違いすぎる。そもそも、違った世界観を持たないといけない。さらに、時代やら流行に反逆しないといけない。その後の戦いに勝利しないといけない。実際、ナンセンス系4コマが流行っていた時期でさえ、その後に生き残った作家陣が少なすぎる現況を思えば、この話は簡単ではない。むしろ、ほとんど無理な気がしてならない。

なお、ナンセンスと同じ枠組みで語られる話として、昨今の傾向で笑えない4コマ=シュールという風潮が存在するけれど、ほとんどは単なる作者の力量不足である。実際のナンセンス、もしくはシュールな笑いとは「作者の意図」を読み取り、「編集者の判断」に驚き、「編集部の考え」を推し量りつつ、この笑いに反応できる「自分のセンス」を心底バカらしく思うレベルで、複雑な笑いの反応を示すものである。なお、この文章を書いている人間は、大橋ツヨシ氏の「エレキング」でウルトラ水流で溶けるジャミラが秋茄子について語る4コマを見て大笑いした経験を持つ。文章を書いている人間ですら、伝わらないことが分かる笑いというものを、後世にどうやって伝えるか。

とりあえず、4コマ雑誌の作り手に、がんばってくださいと言う他はない。

ヒット作に学ぼう[編集]

この項目では、2000年代の4コマ漫画で、流行の萌えを無視しているにも関わらず、ヒットした4コマ漫画を取り上げる。尚、上記の作品でもそうだけれど、あくまでも小さな表現のテクニックについてをとりあげる。

[編集]

というわけで、「らいか・デイズ」(むんこ)。

T T

以上、大変に分かりやすい目の表記でした。って、これだけではなんの意味だかさっぱり分かりませんね。

0 0

まぁ、なんて分かりやすいんでしょう。というわけで、キャラクターが動きやすい「目」についてのテクニックを記載する。とりあえず、4コマ漫画の狭い枠の中で、瞳まで含めて「目」を書けば、それは「輪郭」の大きさに直結する。さらに、詳細に目を書けば書くほど「顔」の輪郭が大きくなり、コマの中でのキャラクターの動きが疎外されることになる。場合もある

そのため、この「T」の字型をした目でキャラクターが縦横無尽に動き回る作品というものは、ある意味、4コマの表現の中でも大きな発見となっている。また、目の太さについても、らいか・デイズでは様々に入れ替えているのも大きな特徴で、

T T

うん、実に分かりやすいですね。結局、このテクニックを駆使することで、「顔のドアップ」と「キャラの動き」という2つの相反する要素が介在することになり、その結果、この作品は「今までにない4コマ」になる。ちなみに、キャラの動きにあう伝統的な目も存在し、こちらのほうは逆にドアップにすることができない。できるわけはない

・ ・

な、できねえだろ。

静と動[編集]

さぁ。次はポヨポヨ観察日記」(樹るう)だ

この作品に詰め込まれているテクニックの多さ凄さについては、あえて語らないけれど、この作品からもよーく分かる昨今の4コマの流行については、少し語る

とはいうものの、けっこー昔から使用されてるほうほうだけれどねつまり、、どでかいいかりや長介に小さいその他のメンバーという形で、画面栄えする組み合わせというものが存在する中、ネコ、もしくは子供大人、さらには発展形である「小さい大人」に「でっかい子供」といったよーな、組み合わせの妙を楽しむ作品は世界中に存在するこれらの作品に共通する特徴は、小さいキャラが動きやすく、大きなキャラがツッコミやすいという、まさにの関係が簡単に表される利点がある

なお、先ほどから何かが近づいてきているような気がしますが、あれはバレーボールですあれがネコに見えるようだと相当に毒されていますし、書いている側の思惑にはまりすぎです

つまるところ、大と小の組み合わせは、日本の昔話を見ても一寸法師を筆頭に、子供が活躍する桃太郎金太郎、さらには昨今のゲームにおいても基本、ボスキャラはでかいことを思えば、日本どころか世界中で大と小の組み合わせが多発しているのが現状である。そのため、かぶらないネタを探すのが実はむずかしく、ついでに言えば、大と小の組み合わせの最高峰であるトムとジェリーなんぞを見た後だと、とてもじゃないがレベルが高すぎて嫌になるしかし、それでもネコを題材、もしくは子供を題材にした漫画やらゲームの隆盛は止まることはないように思えるのは、そこに、キャラクターを動かすテクニックと動かして笑わせるテクニックが詰まっているからであり、それは4コマにも同じことが言えるこれは、ある意味、人オンリーの萌え漫画に対するアンチテーゼとも言える話、かもしれない

後、小さいものが動き続ける=変化し続けると、人の眼はそれを追うようにできている上に、それに意識を引きずられるように出来ている

しかも、リズムよくテンポよく動かせば動かすほど、その傾向は強くなる・・・けれど、いかんせん、ここでやっているやり方は少々やりすぎであることは認める

駄作からはもっと学ぼう[編集]

上述の項目でやったように、ヒット作を解剖すると、様々なテクニックやら制作の意図、さらには編集者のレベル、編集部のレベルもあわせて丸分かりになってしまうという、大変に悲しい話がそこに存在する。何が悲しいって、解剖するのがヒット作だけだと思うか?結局、どこぞの文学青年のように多くの作品を読み解けば読み解くほどその思いは強くなる。各4コマ雑誌の中において、どのようなレベルの編集者及び編集部が、自分達の紙面を彩る4コマ作者の表現に対してをつけるかを与えるかを判断できてしまう。編集者の心意気と、編集部の度量によって表現の幅を広くする作者もあれば、才能を感じさせる絵であっても、編集部の力量のなさから、次の一歩が踏み出せないまま消えていく作者も多く、一見なんの変哲もない4コマ作品の連載から、多くの情報が読み取れてしまう。

その中には作品の寿命といういやな要素も存在し、えてして、その作品がいつ消えるかが分かってしまう。ちなみに、作品の寿命は作者ではなく、作品の持つ運によると言える。作者なら、一度へばっても次の再起は考えられるけれど、一つの作品とそこから生まれる可能性は、えてしてそこで終わってしまうのだから。実にもったいない。けれど、仕方がない。なお、主要4コマ雑誌の中で、一度終了した作品が、その後に復活した例は極端に少ない。10に満たない。

というわけで、この項目では、作品が死に瀕するために必要不可欠な要素=作品の寿命を見極めるためのカギについてピックアップする。

背景を描かない[編集]

最も手抜きできる要素にして、最も手抜きできるからこそ、作者の質がよーく分かるのが、背景である。これをちゃんと書く作者と、省略する作者の間に横たわる川の広さたるや、もうそれはそれはひどいひどい。とりあえず、背景というものは、キャラのドアップでまず省ける。心象風景をスクリーントーンではればさらに省ける。キャラ同士の会話に(フキだし)の中身をちょっと多くしてコマを埋めればなおさら省けるといった具合に、とことんまで削れるのが背景である。

おかげで、省いちゃいけない作品の肝も省きまくってるんだなあ。

というのも、背景から様々な要素が生まれるためである。実際、背景を描けば描くほど、コマの中に奥行きが生まれる。奥行きが生まれれば、キャラ同士の立ち位置も出来上がる。そして、常時水平で同じ立場にしか見えないキャラの中に、にんげんかんけいという深みを表現することのできる空間が生まれ、それはすなわち、作品内に、言葉ではない形で伝わる何かを生み出すきっかけにもなる。

もちろん、キャラクターの魅力も言葉で伝わる部分はわずかである。なら、顔のドアップも仕方がない。けれど、それに言葉を合わせただけでは、作者の意図やらセンスといった要素を伝えきるには不十分である。だというのに、それ以外の要素を伝えるきっかけとなる背景を省いちゃ、作品の魅力の80%を伝えられればいいぐらいで、それ以前、作品の魅力の源泉とも言える作者の魅力が台無しになる。

ワンパターンというアリ地獄によって。

一例を挙げると、植田まさし氏の諸作品における背景の描きこみは、だいたい2ページ16コマのうち、10コマ以上にわたる。で、新人の4コマ漫画の背景の描きこみが、2ページ16コマのうち、4~6コマ程度。それで面白ければ別に問題はないのだけれど、残念ながらネタとは関係ない部分、作品の質という点で、積み重ねた歴史の重みが違うかという話になる。構図の多さ、姿勢、動き、しぐさ、他作品との違いを求めれば求めるほど、孤高という言葉を使いたくなる。

とーりあえず、心象風景を表すスクリーントーンだけでコマを稼ぐより、背景描いてから心象風景を重ねたほうが、同レベルの作家陣と一歩も二歩も先を行けるげな。後、自分独自でなくてもいいから、せめて、他の作者と違う表現を。もっとも、それを探すのは、編集者の仕事でもあるけれど。

せっかくなので、もう一度かぶせる。スクリーントーンで心象風景を表すコマ多すぎ。人と同じ表現多すぎ。

で、背景少なすぎ。そら、消える作者と作品ぐらい一目で分かるわ。うん。読後感ってのは、情報量が少なければ少ないほど少ない。

風景はもっと描かない[編集]

背景の次は風景。別に、韻にこだわったわけではない。けれど、せっかくなので、この作品に食いつける人間が100人に5人いたならば、ありがたくてありがたくてが出るような作品を引き合いに出して語る。

ちゆうわけで、さのまこと氏の「ふるさとの四季」。この作品は4コマ雑誌の中にある1コマ漫画である。そのため、少し特殊な位置づけにある作品なのだけれど、そのイメージの焼付けやすさたるや、植田まさし氏の諸作品に勝るとも劣らないインパクトを持つ作品である。なんせ、言葉がほとんどない。ほぼ絵オンリー。

その忘れがたきほのぼのさは20年以上にわたって芳文社の4コマ雑誌を彩ってきた。そのコマの中には、確実に風景が存在し、言葉の多い4コマの中を潜り抜けてきた読者に、じっくりとコマを眺めさせる時間を提供していた。

しかして、なぜそんな1コマ漫画を取り上げたくなったかというと、多くの4コマ作家が、空気を描写することを怖がるためである。フキだしのないコマや文字のないコマ、キャラクターも文字もなくただ背景だけのコマといった表現は、いつの間にやら絶滅危惧種並みに見かけない表現になってしまい、まるで何かにとり付かれたかのように、明らかに言葉のいらないコマにまで言葉が幅を利かせてくる。

絵の力量がある作者に、言葉よりも雄弁な絵を描かせたとき、言葉がえてして邪魔になるのは当然である。下手なら仕方がないけどさ。

結局、近年の4コマ漫画の歴史の変動の中で、空気やら風景を自由自在に操れるようなネタの構成が出来た作者が、第一線からあらかたいなくなってしまったんだよなぁ、こんちくしょう。実際、さのまこと氏のふるさとの四季も2008年に終了している。心底、もったいないどころの騒ぎではない。で、すでにテクニックとして空気を描写できる作者のつえーことつえーこと。

だって、作品の空気=作者のセンスだから、ネタがかぶるわけがない。そらー、無双できるわ。

なお、インターネットを探し回っても、さのまこと氏の「ふるさとの四季」の画像が見当たらなかったため、とりあえず、それ以外の「言葉のいらない雄弁な一枚絵」として、重野なおき氏の「ひまじん」ときんのりふみ氏の「もいんの高校野球日誌」の扉絵を推しておきます。地味にすごいです。

水彩[編集]

風景の次は、塗り。2000年代から、いわゆるパソコンを使用したデジタル作画が隆盛し、2010年代に入るとほとんどの4コマ作家がパソコンで原稿を描くまでに発展する。しかし、その作画方法にはいくつか欠点があり、その最も大きな穴として、均一すぎる色が挙げられている。これは、濃淡といった絵画の技法を過去のものとするかわりに、そういった技術で表現できる作家をうんぬん・・・については前に語ったからもういいや。しかし、もう一つの側面としてデジタル作画におけるいわゆるアニメ塗りという表現は、それまでの主流だったスクリーントーンを盛大に駆逐するまでは想像の範囲内である。

しかし、そのことによって逆にスクリーントーンが駆逐していった古くからの技術が生き残る。むしろ、デジタルではけして出すことの出来ない色合いが、逆に雑誌内で映えることになる。

実際、このデジタル作画全盛社会に、いまだに水彩による表現が生き残り、なおかつ幅を利かせているところ見ると、違った意味で面白くなる。

というのも、わざわざ水彩やもしくはベタ塗りオンリーで表現された作品は、まずその表現方法からして雑誌内で思いっきり目立つ。オンリーワンの立場を明確にする、どころではなく、しまくる。当たり前だ。他の作品の表現と明らかに違うんだから。けれど、そういった水彩が威力を発揮するのが、カラーページかもしくは2色ページ、もしくは単行本における書下ろししかないため、そう簡単には違いが分かるようにはなってない。2011年現在、コンスタントに4コマ漫画において水彩の絵柄を見たいなら、孤高なる植田まさし氏やいがらしみきお氏といった70年代、80年代の生き残りの人々か、もしくは、4コマからはほとんど卒業してしまったけれども、こうの史代さんのような、自分の表現にある種のこだわりを持ち続けるような人ぐらいしかいない。

そのため、ごくたまに2色ページやカラーページで水彩を使う人材が出たりすると、まず編集部の慧眼と、編集者の力量に感謝したくなる。何よりも、そこまで上り詰めた作者に敬意を表したくなる。それぐらい、雑誌内における人と違う表現というものには価値がある。それは、ストーリーでもジャンルでも、設定でも何でもかんでも、かぶらない表現というものは、他の作品の寿命を延ばすからである。なおかつ、後世にその表現を伝える役割を担う意義もまた大きい。その昔、割り箸インクをつけて描いた漫画が存在したように、表現手段と呼ばれるものは数多く存在する。事実、そのほうが面白い線がかけるという、ただそれだけの理由で、幾多の万年筆から筆、羽ペン、割り箸など、いろいろと器材を試してみるのも表現の一部である。

ま、言いすぎだけどね。けれど、そうでもしないと本当に消える。表現の手法というものは本当に消える。それぐらいに、画一化というものは恐ろしい。時代の流れと割り切るにはどうしても許せないぐらいに恐ろしい。

オンリーワン[編集]

最後に、これがマネできたらとんでもないという、4コマ漫画の世界ではほとんど見ないテクニックというか、表現について語る。これは、即座に創作に直結するような話ではなく、あくまでもこういった事例が存在するという一例であり、もしあえて手を出すようならば、人前に出さずに自分で死蔵させるか、何かのときに役立つぐらいの軽い気持ちで書き溜めるぐらいのほうがいい。それぐらい、他の作品とは違いすぎる話ばかりである。

なお、孤高なる植田まさし氏の話については、次回に回す。

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というわけで、みつはしちかこさんの小さな恋のものがたりを紹介する。とりあえず、足が音符であることで有名なこの作品は、4コマ漫画にポエムを掲載するという、現代ではほぼ見受けられない表現を長年続けたことで知られる。これに匹敵する作品は4コマ漫画にエッセイを組み込んだとりのなん子さんのとりぱんぐらいしか見当たらないぐらい、4コマ漫画の中ではオンリーワンたる技術である。

そもそも、なぜ詩なのかについて語るならば、この作品が誕生した1962年、今からちょうど49年前という時代では、は当たり前の表現だったことから説明しないといけないところが悲しい話である。当時、谷川俊太郎寺山修司といった若手の詩人が頭角を現し、若者の間で自らの思いを言葉にすることが抵抗なく行われていた時代にこの作品は誕生している。世はまさに昭和元禄と呼ばれる高度経済成長時代、様々な文化が勃興していった中で、漫画と詩をあわせたこの作品は発表直後から多くの読者の支持を集める。

現代とは天と地どころではなく、ボイジャー1号マリアナ海溝レベルの差があることは認める。そもそも、昭和30年代て。ゴルゴ13よりも前て。東京オリンピックよりも前て。アニメのサザエさんよりも前て。隔世の感どころの騒ぎではない。

しかし、その時代は、日本が60年安保で揺れ動き、アメリカで公民権運動が最終局面を迎えた時期にあたり、そして地獄のベトナム戦争が深刻化していった時代である。その中から、アメリカの若者たちが新しい表現を求め始めたまさに端緒にあたり、それまでにない表現を色々と穿り返してついに金鉱脈を見つけた時代である。自分の心情をそのまま表現することが金になった時代である。そのため、4コマ漫画の中に自作の詩を入れることぐらい、どうってことのなかった時代である。

ただ、その表現が時代の壁を突き破り続けて50年間続いた件については、奇跡と呼んでいいと思う。親、子、孫3代にわたって愛され続けたこの作品に、詩という表現が存在し続けたことも、奇跡と呼んでいいと思う。

つまるところ、詩という技術には、そういった力がある。キャラへの愛情はうつろいでも、作者の言葉への愛情はずっと続く。重い話だ。当たり前だけど、重い話だ。

なお、詩を使ったテクニックとして、別に自作の詩にこだわらなくても、既存の詩かもしくは既存のフレーズを4コマの中に挟むという技術も、一応存在する。俳句短歌、もしくは宮沢賢治の詩の一部などは、抜きとるだけでも十分に言葉に威力がある。もっとも、使いこなせるかどうかは、作者の力量による。また、さだまさし中島みゆき北海道のハゲといった、歌詞の中に起承転結やら情景、雰囲気が嫌になるほど存在する、実に漫画的な歌手の作品をストックしておくと、いざというときに役立つ。笑えるかどうかは別として、伝える際にもんのすごく役立つ技術が詰まっている。

ちなみに、詩という表現には、冗談抜きに人生を左右する強烈なモノが存在する。とりあえず、気をつけろとしかいいようがないけれど、表現の深奥には、触れてはいけないものが多すぎる。

さよなら[編集]

2014年9月27日、4コマ漫画の歴史に名を残す偉大な作品が幕を下ろすことになる。50年以上にもわたって初恋をテーマに描き続けられた小さな恋のものがたりは、全編書き下ろしとなった43集において主人公であるチッチとサリーとの別れを描き、そのまま一つの区切りを迎えることとなる。あわせて、2013年の42集の発売の際に、サリーのモデルであった男性と、自らの夫との死別について語っており、その上で、42集の発刊から1年をかけて、外国という手の届かない場所に行く初恋の人にさよならと言う、さよならと言える主人公を描いている。

4コマ漫画という表現は、ここまで行き着くことができる。

あわせて、詩と4コマ、吹き出しの掛からない言葉と4コマという表現を誰かどなたかいつの日か忘れずに消さずに何よりも考えずに引き継いでくださりますよう心よりお願い申し上げます。本当に、いい表現なんです。本当に。

狂気[編集]

・・・まさか、小池田マヤを語ろうとして、最終的にこの言葉が残るとは思わなかった。というわけで、バーバーハーバー週刊モーニング編集部について語る。この項目に関しては、正直なところ、マネしたら危なすぎるため参考にしないほうがいい。ただ、こういう話もあるとだけ知っておくだけでいい。なぜなら、この作品の作者の見ているものが違いすぎる。なんというか、うん、違いすぎる

というのも、彼女の表現というものが、つまるところ、狂気に根ざす部分が数多く存在するためである。実際、バーバーハーバーには恐るべきテクニックが詰め込まれるだけ詰め込まれている。6ページの物語の中に、時代、空気、情報、人間模様、笑い、涙、その他もろもろを、とんでもない表現を駆使しまくって読者に提供。モーニング誌上でこの作品が連載されていた2000年代初頭から中盤にかけて、明らかに4コマ雑誌における作品群とこの作品との次元が違っていた。

けれど、それ以外にも何かが違っていた。

まぁ、そこが狂気と呼べる部分になるわけだけれど。実際、ウィキペディアGoogleなどで作者の漫画人生を紐解くと、様々なものが去来する。4コマ漫画家としてデビューした芳文社とのケンカ別れや、男装癖のカミングアウト、Web漫画にもいち早く進出し、現在は女性コミックで活躍中と、多くの人々がイメージする4コマ漫画の作者のイメージを逸脱する話が続々と出てくる。

事実その作風は大変強烈で、デビューしたての頃から、子供達にも好まれるほんわかとした絵柄の作品を連載開始したかと思ったら、即座に、堂々とセックスの生々しいネタが混入され、次に成年誌において4コマ漫画でありながら堂々とを題材にしたと思ったら、気軽に気楽にエイズの話題を放り込んだりしていた。そういう点において、4コマ漫画に気楽さと気軽さを求める読者にピンを抜いた手榴弾を投げ込むようなえっぐいことを平気で行う姿勢は、鬼太郎と同じ絵で第二次大戦の戦場を事細かに描写する水木しげるの戦記物に勝るとも劣らない。それぐらい、すんなりとはんなりと心にしみる表現を使って、心に重いものを残す人である。

それは、ある意味、表現者としての到達点を経験していると言え、つまるところ、読者がどうなろうと知ったこっちゃないってのは、やりたい表現をとことんやりたい人間にとっては、大きな一歩になる。

その姿勢を狂気と評すことになんら疑いはない。躊躇もない。ただ、心底、マネをするなという話になるのだけれど。

本来であれば、4コマ漫画の歴史に名を残すもろもろのテクニックを開発した彼女の姿勢は、ぜひマネすべきものになるはずである。実際、ストーリー4コマのように彼女が切り開き続けた荒地から、2000年代以降の4コマ文化が花開いたことは、とてつもない業績であるのだから。他にも、枠外の情報やほんわかした作風の伝え方など、多くの表現の森を切り開いて後続の作家たちに豊かな土地を提供してきたのだから。

それは、素晴らしい。本当に、素晴らしい。けれども、読者というものさしを取っ払った表現なんてえものは、最終的に作者自身の首を絞めかねない危険なものである以上、絶対にマネしてはいけない。なぜなら、読者を見ない作風は、多くの場合、編集者も見ない。その結果、残された唯一の伝え手が自分自身になることが多いため、その自分自身を満足させようと、作品を鋭利に研ぎ続けることが、多くの悲劇を生んできたためである。1週、1ヶ月、1年ならまだしも、数年もの間、自分自身を納得させ続ける作業が残すものは、最終的に触ればみんな傷つく作品になる。どこぞの妖刀ムラマサレベルで当たり前である。そして、その表現の真意を分かってくれる読者が少なくなっていくのも当たり前である。

また、いずれ過去の自分と対峙せねばならなくなるのも、自分自身との戦いのまずいところである。谷岡ヤスジ氏の作風は、最終的に氏の命を削った。それぐらい、過去の自分自身のセンスというものは、越え難い壁になる。

そのため、この部分において明らかに編集者運がなかった人だとも言える。

実際、4コマ漫画にはそんなレベルを求めない人々も多く、さらに読者から自己満足という名のカウンターを食らわないようにするには、確実に編集部サイドの尽力が必須になるのだから。ワケガワカラン作品を好む読者は少ない。ついて行ける読者は、もっと少ない。分かった上でついていくかどうかを判断する読者もいれば、作風と編集部の力量から、早々に結末を判断するような読者もいる。

その点、さすが成年誌の雄、モーニング編集部である。よくぞ彼女の表現と読者の間を上手くコントロールしたと思わざるをえない。実際、バーバーハーバーは読者からも好評を得、人気作のまま終了した後、さらに後日談まで制作されることになる。それぐらい客の心を掴んだよい表現だった、という話である。

掴まなかったいくつかの表現については語らない。編集部の力量という点で、本当に語りたいけど語らない。

あとがき[編集]

どこぞのウィキペディアにおける4コマ漫画の記事では、クソむかつくことに2012年7月まで歴史の項目が存在せず、いきなり手塚治虫が古典的位置付けなどという項目で登場していた。少しでも歴史をかじれば、手塚以前に新聞4コマの王様としてフクちゃんやらノンキナトウサンといったヒット作が存在し、また戦前における少年漫画における超大ヒット作のらくろも、最初期は4コマ×2の8コマで作品が掲載されていた。にも関わらず、おもっくそ、4コマ漫画のスタイルというものが系統立てて語られるようになるのには、記事作成からおよそ9年の歳月を経なければならなかったというのが悲しい話である。

また、戦前から戦後にかけて、確かに4コマが漫画文化を牽引した時代が存在しており、フクちゃんの横山隆一らが1932年に結成したグループ「新漫画派集団」(後に漫画集団)には、杉浦幸雄加藤芳郎といった4コマの歴史に名を残さないといけない人物が大勢名をつらねているのだけれど、悲しいことに彼らの活躍の場は新聞だったり雑誌だったりと、2011年現在のように単行本といった形で取り纏めることのできない媒体だった。そのため、綺羅星のごとき数多くの才能が、時代とウィキペディアの中に埋もれてしまっているのが現状だったりする。

30年間、毎日4コマを新聞紙上に掲載してきたような稀有な才能を持つ人々が、一部のビッグネーム以外に箸にも棒にもかからない。これは、悲劇である。けれど、4コマ文化とは、そういうものである。そもそも文化というもの自体が、そういうものである。だからこそ、消えた作品と埋もれていった作品は尊い。

続く[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 当然だが、誰かをただ貶めたり、社会に対して不満を吐いてるだけのものが毒のある笑いという訳ではない。

関連項目[編集]