UnBooks:4コマよみに与ふる書・3巻

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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4コマよみに与ふる書・3巻(育てろ。いいから育てろ。)とは、4コマ漫画どころか全てのマンガ、さらには表現の全てに深く関わるネタを思いつくために、いったい何が必要になるかについてをエサにして、新米編集者を騙して二度と帰れない深みへといざなう、実にアンサイクロペディアらしい落とし穴への誘導技術である。

編集長からの電話[編集]

1980年代、まんがタイムの発展を牽引したもろもろの4コマ漫画の一つに「ぼくはコースケくん」(さいわい徹)という作品がある。90年代に入ってからも長らく人気作として読者に愛され続けてきたこの作品はしかし、1本の電話でその運命がかわる。そして、日本の4コマ漫画界も変わっていく。

15年もの間、愛され続けた作品ですら時代の波にもまれて消える。ならばこそ、生き残る術を見出さないといけない。

へんしうしゃさんへ送る表現の数式[編集]

まず、100点満点のテストを想像してください。そこにある設問は、50点の問題が1つ。10点の問題が4つ。1点の問題が10個あります。なお、50点の問題は、場合によってマイナス50点から50点まで可変されると思ってください。そのほかの問題については、マイナスにはなりません。

で、どんな場合において50点の問題がマイナス判定されるかというと、他人と同じ回答、以前のものと良く似た回答、空気読めない独善的な回答などが、主にマイナスの対象となります。果たして、このテストでどうしたらいい点を取れるかという戦略を立てることこそが、ネタ出しの基本になります。とりあえず、このテストについて4コマ漫画という枠組みで配点すると、

  1. 50点~-50点・・・ネタ
  2. 10点・・・絵
  3. 10点・・・作品の設定
  4. 10点・・・作者の個性
  5. 10点・・・時代
  6. 1点・・・ポージングやら仕草やらモブやらといった、作品の彩り

という形になるでしょうか。で、早々にぶっちゃけましょう。このテストは、1点の問題からとき始めないとはまるようになっています。なぜなら、50点の問題の特性に、他人とかぶる要素はマイナスという落とし穴がある以上、ネタから先に手を出すようではアウト。まず、そのネタが自分のものであることを示す作品の彩りを重要視しないと、このテストでいい点を取り続けることが難しいでしょう。たとえまぐれで90点を取ったとしても、赤点が1つあるとダメと見なされるのが世の中です。えぇ、世知辛いですよ。まったく。しかも、このテストは、およそ1ページにつき2つ存在し、大体は表紙込みで6ページ11本だの8ページ15本という量が必要になる以上、その下敷きとなるネタ出しは1本につき×50は必須。ネタの引き出しが少ないなら、×100は見たほうがいいことになります。

そらあ、世の4コマの主流が、ネタがかぶりにくいストーリー4コマへ移るのも仕方ないわな。

けれど、それだと作者がのびへんねんのも確かやねん。生き残るのは生き残るんだけれど、100点が取れなくなっていくねんて。そやから、ネタの出し方なんていう話をせなあかんねんて。あぁややこしい。

実際、この話をどこぞのアンサイクロペディアで当てはめるならば、ネタがネタとして生き残れるのは、1日に1本か2本。5本も残ったら大漁旗を掲げてもいいぐらいであり、残りは大体マイナスの領域に突入している。ある意味、同じ表現でも+の多い4コマとは世界が違うと言える。けれど、その分、マイナスが多いからプラスが映えるという利点も存在している。あわせて、アンサイクロペディアの配点は以下のようになっている。

  1. 50点~-50点・・・ネタ
  2. 10点・・・文章力
  3. 10点・・・画像
  4. 10点・・・作者
  5. 10点・・・時代
  6. 1点・・・人と違うように見せる技術、叩かれないよう取り繕う技術、作品と心の隙間を埋める技術、読みやすさという名の技術、とにかく技術などの彩り。

無論、超適当な話である。あわせて、もう一つ、アンサイクロペディアではというくくりにおいて、一つだけ確実な加点方法が存在しており、すくなくとも、作品を啓上したらアフターケアやら手直しは当然であり、他のアンサイクロペディアンとのやり取りを重ねたり、場合によっては作品の回収もありうる。で、そういった姿勢に、作者の配点が加算されるという計算が成り立つ。腹黒い話だけど、成り立つ。まぁ、世の中の表現なんざそんなもんだ。

手直しできなくなったらオシマイ。

あわせて、4コマの世界において、作者の10点とは、もちろん編集者込みである。一定の人気を得た新人が、雑誌間を越えた直後にアレと思わせる作風になったりしたときなどは、作者よりも各社の担当の個性が見えるのが道理である。

アスキーアート[編集]

昨今、日本のインターネットではアスキーアートを駆使する表現方法が世界に先駆けて確立され、おっそろしい勢いで、老若男女の時間を消費している。基本、どこぞの漫画の神様が手広くやったような「スター・システム」と呼ばれる、既存のキャラを使いまわすその表現方法は、おっそろしくキャラを引き立たせ、なおかつイメージを浸透させる効果が強い。

そらあ、著作権というものに引きずられている出版業界では分が悪い。

幸い、4コマの世界とAAの世界は似通った部分(視線を縦に動かす、パソコンの画面とコマの大きさの比率がほぼ同じなど)は多いものの、AAには細かい表現が難しいという弱点というものがあり、さらに背景やキャラの仕草、ポーズといったものを「使いまわす」ことできても「使いこなす」ことが難しいため、似たような表現ではあるものの、同じパイを食い合うということは少なく、共存できる存在と言える。

これが、キャラクタービジネスになると話は別になるけれど、幸いどこぞの「けいおん!」や「らき☆すた」のような例外はあるものの、どこぞの週刊少年ジャンプのようにインパクトのある表現やキャラを、漫画とネットで奪い合うような戦国時代は、4コマの世界には訪れてはいない。

のだけれど、なぜだか、AAみたいな4コマ。平たく言えばキャラを押すことを中心に考える4コマが増えているのも事実である。キャラと言葉、顔と言葉でも確かに4コマは出来るけれども、それはAAでもできる。むしろ2012年現在、表現はそちらが本場であると言える。人口と言う点では特に。しかも、相手は著作権を無視したオールスターが出揃っているというのに、何も考えないで4コママンガが同じ土俵に立つというのは、正直かわいそうである。そもそも、向こうは顔と文章とネタとストーリーと、いろんな要素をぶち込めるだけぶち込むことが可能だというのに、一般的な4コマでできる表現はどうあがいても4×2×ページ数しかない。相手は、その10倍の量を平気でたたっこんでくるにも関わらず。

いや、うん。そういう表現のほうが楽なことは認める。キャラを売り込むほうが、センスを売り込むよりも確かに楽。けれど、その先に待っているのは、もっと強烈なキャラやセンスによって埋めつくされた忘却でしかない。世の中、面白いもの、インパクトがあるものが記憶に残る以上、どこぞのAA文化にスターシステムが存在している以上、その路線で生きていける可能性は少ない。本当に少ない

顔と言葉だけでとんでもない表現をする世界がインターネットに出来ている中、出来てしまった中、ほとんど同じ表現で読者に売り込もうたって、そうはいかねえや。だからこそ、細部を大切にせにゃならんわな。AAの弱点というものが分かりきっている以上、それをしっかりと表現すれば違う土俵で勝負できる。

てゆうか、それ以上にAA文化が4コマ文化に食い込んでくる可能性も捨てきれないのが恐ろしい。もし、AAに背景や仕草やポージングを、ちゃんとした構図で組み込めるソフトが出来上がったとしたら、けっこー、4コマ文化はやばい。むしろ、マンガ業界全体がやばい。もっとも、そんなソフトが出る前に、同じ機能がついた作画用のソフトが出て、より表現の裾野が広がる可能性もある。こればっかりはなんともいえない。ただ、こういった技術の発展が文化をぶち壊すという話は、それこそ日本史でも世界史でもいくらでも存在する。もしそうなった場合は、いろいろと覚悟したほうがいい。

ちなみに、いつかの江戸時代におけるどこぞの東洲斎写楽の大首絵のように、キャラを前面に押し出す文化というものは、一瞬で消える花火みたいなもんだったりする。誰も、写楽の絵にかかれた奴江戸兵衛なんてキャラクターを知りゃしない。むしろ、最近の研究では、奴という字はつかずに単に江戸兵衛というなんて話もあるってのは、そういうことである。けれど、そういう表現方法は後世に残る。絵も残る。作者の名前は尚のこと残る。文化てえものの一面である。

とりあえず、そういった写楽が活躍した寛政時代からさらに20年を経過し、文化が爛熟しまくった文化文政時代のごとくに様々な表現が小さな画面の中で沸騰しているのが2012年のいんたあねっとというものである。そんなぐつぐつと煮えたぎった世界と同じ、キャラを前面に押し出すという作風を持ち込もうというのであれば、AAでは表現することが難しい技術を駆使したほうがいい。でないと、読者は「同じもの」と判断して記憶という沸騰した鍋の中に、何も考えずにその表現を投げ入れる。結果、読者はより面白い表現へついていき、哀れAAと似たような4コマなんぞは、しけたジャガイモのごとく先細りになるは道理。それぐらい、同じ土俵に立ちたくない世界というものは存在する。

ま、単にキャラを売りたい、一発当てたい、バクチを打ちたいだけだったら、いくらでも表現という名の湧いた鍋の中に身を躍らせるがいいや。先に見えるのはシチューでしかないけれどもさ。名も無き作家たちに幾多のキャラクターが溶け込んだまろやかなシチューは、子供たちには人気のメニューであり、大抵の場合、一握りの勝者、別名カレーライスにとっての永遠の敗北者だ。

カバーデザイン[編集]

今回は趣向を変えて、ネタではなくに直結する話をする。人によっては、そーとー危険な話をする。というのも、4コマ漫画の単行本を「手に取らせる技術」について語るからである。それは、いわゆる表紙買いという行為に直結させるために、「一枚絵」を極限までに高めていく作業に関する話である。とりあえず、世間一般で思われている「単行本の表紙」というものが、作者が描いて編集部が写植して即出来上がりとかいうものだったら世の中苦労しない。最近の4コマの単行本は、作者から送られたベストショットをデザイナーが加工して特殊効果をばんばんに使用してそこにタイトル及び出版社名に巻数、さらには帯の煽り文句などを写植、その上で作者や編集部が再度こまごまとした点をチェック、吟味し続けてようやく一つの表紙が完成する運びになっている。読者に手にとってもらえるよう、ページを捲ってもらえるよう、絵の専門家と関係者たちが努力に努力を重ね、一冊の単行本の表紙を造り上げている。

そのため、色の表現やら構図、さらには背景の特殊効果なんてえ技術の塊がそこにある。てゆうか、服のしわや陰影、耳、指先の表現について、むしろ作者が本の中身をもっと頑張ってくれといいたくなる表紙詐欺も多々ある。こればかりは、一枚絵というものが4コマ漫画とはジャンルを異にするものである以上仕方のないことなのだけれど、自分の作品が夢のまた夢だった単行本になる直前に、そんな落とし穴にはまったら目も当てられない。しょーじき、ここの落とし穴に落ちると色んな意味でシャレにならない。

夢の頂点で大怪我。例えるなら、そんな悲劇に相当する。

というのも、作品自体は大変に面白いのに、確かに一枚絵の力量という点においては言葉を濁さざるをえない作者が世の中には存在しており、しかもそれがことのほか大勢いるという事実が全てを物語る。むしろ、長年にわたって雑誌で追いかけている作品なのに、作者の扉絵の技術を考えると、この絵で単行本の表紙だとさすがにきつい、ちょっと売れそうにない、しゃーないという作品も多い。泣きたくなるぐらい多い。そして、単行本化するまでは良かったのに、単行本化の後、明らかに勢いが落ちる新人も多い。本当に泣いたこともあるぐらい多い。確かに、今思えばあの作者のあの作品のあの1巻目の表紙が、絵ではなく貼り絵だったことがあったなあ。

2巻目はなかったなあ。

でも、まぁ、こればかりは商売である以上仕方がない。雑誌と単行本の間には大きくて深い溝が横たわっており、暗くにごった何かで満たされている。

あわせて、今回の話の裏づけを取るため、雑誌や単行本のカバーを専門に行っているデザイナーさんのブログを見たところ、一枚絵が苦手な作者が多すぎて多すぎて、とてもじゃないけれどブログを紹介してはいけないことに気づいた。逆に、一枚絵に力を入れている作者にいたっては、比較するのがおこがましいレベルでもんのすごい一枚絵を謹上、デザイナーさんのほうもそれに全力で答えた結果、とんでもない表紙にしている事例がそこかしこに。

そらあ、売れるわ。だって、背景やら服の陰影やらといった特殊効果やらテクニックやらをあわせた桁が、一枚絵が苦手な作者と2つ違う。1つではない。2つ違う。心の底から作品名を出したいけれど、涙を呑んでこらえる。けれども、そのとんでもない表紙の何がとんでもないかだけは説明する。せねばならぬ。

まず、背景、光源、小道具、主人公以外の登場人物といった、本来表紙には無くてもいいものをしっかりと描き込み、さらに服のしわに耳たぶに指、さらには、爪、そして毛のほつれまで明確に丁寧に表現。その上で、鬼のような陰影をそこかしこどころではなく爪の先にまでほどこし、しぐさや視線など一枚絵では弱い部分をしっかりと描き込み、さらに当然のようにキャラがアクセサリーをつけて家具には木目が存在し、葉っぱに葉脈すらあるといった、なぜそんな表現が出来るのか気づいたこちらが呆然となる要素が詰め込めるだけ詰め込まれている。

なんっじゃ、そりゃレベル。とりあえず、作者とデザイナーが果し合いでもしているのかと思うレベルで濃い表紙は現実に存在する。断言できる。これは手に取る。ページめくる。衝動買いできる。つまり、売れる。

つまり、その逆もある。どうやっても手に取れない一枚絵がある。買おうかどうしようか迷っている背中を押すとは逆、大きなカブを引っこ抜くレベルで、一瞬で「よし、買わない」と決められる表紙もある。そらあ、内容が面白かったらどんな表紙でも即買いするのが愛読者てえもんさ。けれど、新しい読者の開拓には、表紙はものすごく重要であり、そして愛読者にとっても買いたくなくなるよーな表紙の一枚絵というものがある。もちろん、雑誌では愛読はしてなくても、作者の成長を願って手に取れる表紙もある。やはり、一枚絵というものは、出版社にとっても作者の未来にとってもかなり大きな要素であるんだわ。マジで。単行本1巻の段階で、若手作家の未来が見えるか、寿命が見えるか。それは誰にも分からない。けれど、せめて、隣に置かれる別の新刊よりも、一枚絵に込められる表現の桁が1つ上であってほしい。横並びだと、その分、売れない可能性が高くなるわけだから。

とりあえず、あとがきで、作者がデザイナーを賞賛したら作者とデザイナーと編集者の勝利。これは確実。

小道具孝[編集]

とーりあえず、久しぶりにネタの源泉に鉄の斧を投げる。でもきれいなジャイアンはいらない。

そんなわけで、生活感。この3文字で地獄を見る4コマ作家は多い。というのも、これはあくまで面白いだの萌えだのといった、読者からの支持を得るための話ではなく、「読み手に共感を抱かせる=反感を抱かせない」という話だからである。ようは、読者からのアンケートで「3.おもしろくない」を選ばせないために何が重要かってえ視点に沿って、作者のセンスよりも作者の常識度を試す話だからである。

目指せ「2.普通

ちなみに、それに気づかないで、あくまでも自分のセンスやら時流に乗った面白さだけで突っ走ると、面白いことは面白くても反感を抱かれやすい。ネタに追いつけない読者を生み出しやすい。まぁ、才能には嫉妬がつき物であり、そんな嫉妬を突き抜ける面白さを持った作者も年に1人ペースで出てくるのがぎょーかいのいいところだけれども、んな才能がごろごろ転がっているわけがない。で、新人作家の多くが自分の4コマの反応が知りたくてネットで検索して、嫉妬や反感に打ちのめされてぐーるぐる、もしくはまったく話題にも上っていなくてぐーるぐるというのが、よくある光景である。

そんな喜劇を乗り越えるため、作品への共感は必須になる。で、読者アンケートに普通に印をつけさせるには、キャラの魅力を前面に押し出すよりも作品に共感を得られる描写を手を抜かずにしっかりと続けるのが良かったりする。

というわけで、小道具。

ラブレター結婚指輪といった恋愛に直結する小道具はネタとしてよーくありすぎるのだけれど、それ以外の一般的な人間普通の生活で使用するアイテムや学校で使うアイテムをネタに組み込んだり、組み込まないまでもしっかりと描写することで、キャラや作品への共感をおっそろしいほど向上させるテクニックが4コマの歴史に存在する。とりあえず、牛乳ぞうきんという学校内に存在する細菌兵器に関して多くの人間が共感を覚えるように、読者一人ひとりが生活の上で感じる意識をコマに丁寧に描写することで、嫌悪感を抱かせず、批判を免れて、なおかつ親近感を抱かせるという、面白さ第一主義では土台無理な話がそこにある。

そういった描写が異常に上手かったのが、田中しょう氏のあさかぜ君。作品の中で料理を作り、を磨き、掃除して、洗濯して、洗濯物をたたむ。その技術について例えるなら、漫画家の逸話でよーくある、ネタだししている最中にキャラが勝手に動き出すとかいうレベルではなく、もはや「キャラがコマの中で生活しているところをペンで切り抜いていく」レベルにまで到達していた。そのため、ちりとり中華なべといったネタに直結する小道具や、テレビこたつ鉢植えといったネタとは関係ない大道具も生活感を出すためにしっかりと描写され、そういった細かい部分まで描きあげたコマの中にネタを組み込んでいくスタイルを確立した結果、面白さは別として、おっそろしく長期間にわたって共感を得られる作品群が出来上がる。

そら、まんがタイムで25年持つわ。

しかし、世の中は皮肉なもので、25年もの長期連載の中で、現実のほうが黒電話の時代からプッシュホンポケベルから携帯電話隆盛時代へ移行し、ルンバやらipodやらパソコンやらプリウスといった最先端すぎて生活感のない品物が主となっていくんだからシャレにならない。読者の共感を得られる小道具のほうが代替わりしていくんだからシャレにならない。

そら、30年はキツイわ。

けれど、そういった商品が世の中にあふれても、生活は生活である。多くの読者から共感を得られる描写はいかようにも転がっている。問題は、そういった生活にネタを組み込ませようとすると、多くの場合において、どこかで見たことがあるネタになってしまうわけだけれど、ありがたいことに、最先端の道具にはそういった話が存在せず、基本、早い者勝ちになっている。その結果、2000年代以降、同じく生活感あふれる松田円さんのサクラ町さいず重野なおき氏のひまじんといった作品が、これまたけっこーな長期連載を勝ち取るわけで。両作品とも、家の中の描写における小道具&大道具の多さは際立っており、最先端の道具もちゃんと存在していた。

けれど、両作品とも2012年に入り終了する。まぁ、いつまでも続けられるネタであるからこそ、古びる前にやめることもまた正解である。ちょっと叫びたい気持ちもあるけれど。

相当、叫びたいけれど。でも、まぁ、とりあえず、そこに新しい作家が切り込む余地が出てきたことはうれしいことである。本当に叫びたいけれど。

飽ききぬと 目にはさやかに 見えねども[編集]

もう一つ。共感の持つ重要な役割について。

面白いことは重要である。売れることはなお重要である。けれど、飽きられりゃ終わりというのが、世知辛い4コマ業界の真実の一つである。作品どころか、作者ごと終わりというのがたまらん話である。そもそも、なぜ飽きられるかというと、短期間に同じ表現を繰り返せば誰だって一つ先のコマが見えるようになり、オチが想像できるようになり、なおかつ、作者の行く末も分かり始める。その結果、当初の期待は薄れ、徐々にアラが目立つようになっていき、そういった読者の空気が作品を押し包んでいく。

まぁ、よくある話である。

共感にはそういった過度の期待が伴わない。それ以上に面白さというものが期待をかなえることで得られるものである以上、常にハイレベルを維持せねばならない要求にさらされるのに対し、共感はそこまでではない。さらに、面白さのほうには国語算数理科社会、全部100点わーすごい、とかいうレベルで常に羨望という名の疎外感と妬み嫉みが付随して、なおかつ求められるストレスも相当なものであるのに対し、共感のほうはそういったマイナス要素を極力少なくし、なおかつそれ以上の結果を求めることも可能である。なぜなら、それ以外の表現がいくらでもあるのが世の中てえものだから。つまり、国語算数理科社会のみ100点とかいうよりも、国語算数理科社会体育図工学級会家庭科道徳昼休み給食掃除身体測定遠足写生運動会、といった世の主流とは外れている表現でも広く浅く60点を取れば、合計値は上になる。その分、別の努力が必要になるけれど、いわゆる面白さ疲れ=飽きを回避することが可能になる。

そういった、広く浅くを行うとき、小道具は強い。なんせ、上記の授業ほとんど全てに固有の道具が存在しているように、学校以外の会社だのバイトだのといった世界にも、それだけの小道具が存在している以上「知らない何か」や「知ってる何か」を満遍なく行き渡せ共感にいざなうことが可能になる。まぁ、面白さとはちょと違うけれど、作品を細く長く持たせることが可能になる。まぁ、これは笑いの本質ではなく、何か知りたいという知識欲に属する話だから仕方ない。

あわせて、それ以上に強力なものも存在する。とりあえず、作者の生の言葉の強さたるや、そらあもう、とてつもない。これはどこぞの宗教みたいなもんで、人様に胸を張って堂々と自分の人生をさらけ出せるようになるのは、よっぽどの度胸か相当な素養、もしくは両方が必要になるため、まず、これらを使いこなせる4コマ作家は稀有。片手で数えられる。そのため、無難に小道具やらなにやらといった「細かい表現」を極めたほうがいい。そっちのほうが楽。むしろ、作者の人生を削る形で共感を得るより、その前の段階で共感を伴う「自分だけの表現」てえやつを別の部分で築いてから面白さを追求したほうがいい。

というのも、作者の生の言葉てえ世界の先に化け物がいるのが分かっているから。あれは20年にわたって飽きというものが存在しないサミュエル・ベケット並みの人生を歩んでいる表現の怪物だから。

しかし、4コマの世界にも彼女のフォロワーは多い。多かった。けれど、さすがにアレはヤバイ。あのひょーげんに勝てるひょーげんなんて、ほとんどない。そもそも、現実の不幸に対する共感は恐ろしいほど強固、強固すぎる。なおかつ、面白さも異常であるわけで。実際、彼女がデビューしてから20年の間に立て続けに生まれていった彼女のフォロワーは、彼女の現実によってほぼ駆逐され、家族内4コマの世界にのみわずかに生き残っているのが現状である。

けど、そんなひょーげんに勝る表現の一つを最後に紹介する。とりあえず、表現の世界には高木ブーという存在で飽きを回避する方法がある以上、ドリフとサイバラだったら、まだ何とかドリフが上。というわけで、高木ブーのように「面白くはないけれど忘れられない」という共感を、描き込むことが出来るか出来ないかで、作品と作者の先が見える。そういう意味では、簡単なのにかーなーり難しい表現である。あわせて、そういった笑う部分がほとんどないけれど、おっそろしく清涼感を持たせる表現を、サイバラも使っている。

はんたうにほそろひい。

とりあえず、原稿落とすな&質も落とすな[編集]

題名を書いた直後に、絶対無理と思ったことは秘密だ。

世の中に雑誌と言う表現媒体が出来た直後から、原稿落としという雑誌に載っていなければならない作品がなぜだか行方不明になる現象も誕生する。したと思う。なぜだか。まぁ、よくある話である。あってはいけないけれど、よくある話である。問題は、そのよくある話に備えてどういった体制を組めるか、とれるか、対応するか、せねばならぬか、ということである。そして、そういった非常事態における対応策もまた雑誌という媒体が積み重ねる歴史の重要なパーツということである。事実、原稿が落ちた場合の対応について、雑誌側が考えている場合と考えてない場合の差がけっこーでかい。

その昔、原稿が落ちたかどうかは知らないけれど、11月になっていきなりの話をぶち込んだ4コマ雑誌があった。とりあえず、編集者やら編集部の力量の無さをまざまざと見せ付けられて、雑誌の先行きがものっそく心配になったなんて話が、実際にあった。そして、その不安が見事に当たって泣きたくなった。

結局、原稿が落ちるという非常事態で分かることは、まさに編集部の質である。連載陣が欠けたぐらいで雑誌のが落ちたなんて話になる場合、それは落とした作者ではなく、そういった状況を想定していない編集者側の力量が不足しているという話にもなる。書いてるほうも、ひっでえ話だと思うけれど、何事にも保険をかけないというのはそれぐらいむごい対応なわけで。

あわせて、目次にまで名前を出したのに、結局、原稿が落ちて内容がちぐはぐどころかひっちゃかめっちゃか、なんて話になった場合、読者と編集部と作者の信頼関係ががっつり失われる。分かりやすい言葉で言うなら、原稿が落ちると金を落とさなくなる。まぁ、それでもブツクサ言いながら買うのが愛読者てえものだけれど、愛読者未満にとっては、休載以上に原稿落としのイメージは悪いわな。

それに、いつ頃仕事が忙しくなるか&体調崩しそうか&原稿落ちそうだか、なんて話は、作者にも編集者にも長年の読者でさえも分かる話であって、本当に体調不良でヤバイとか妊娠が分かったとかいう突発的な話以外、単に関係者間のスケジューリングのミスがそういった事態を招いたと編集部が思われるのも仕方ない。作者を恨むなんてえ読者はそうはいない分、八つ当たりが編集部を襲うのはどうしようもない。せめて、単行本についてはスケジュールがキッツキツになる月2冊出版ではなく、2ヶ月連続でと思いたくなる。どっちにしろきついけれど、半年先のスケジュールを考えて、自分の体調と精神状況も鑑みて、なおかつ、非常事態用の対応策も練っておいてからやるべきことをこなさんことには、急なインフルエンザで全てが崩壊なんて話にもなりかねない。

そんなわけで、そういった破綻の可能性を常に孕んでいるのが雑誌という存在である以上、作者が100%全て確実絶対何をどういおうと、悪かったとしても、編集者の罪である。編集部の罪である。全然、理不尽じゃない。理不尽だけど。

なお、悲しい話として、そういった批判を免れるため、編集部としては保険として連載陣の急な体調不良を見越した雑誌の体制の整備を考えておくべきなんだけれど、なかなか単発の企画やら新人発掘やらでは、人気作家の穴を埋めきれない。だから人気作家というわけだ。その上、作者が数名原稿を落とすなんて場合も想定しなければいけないのが、2011年3月11日以降常識である。てゆうか、常識にしてくらはい。マジで。なんせ、編集者も含めた作者自身の体調不良&周囲の状況の変化、そしてそこからくる精神的な揺れは、どうしても手抜きやら無理くりな表現を招く上、自分で自分の表現を見たくない、なんていうドツボにすらはまらせてくれます。しくさります。

そのため、なんとしてでも作者を守るため、突発的事象に対応可能なページの埋め方を色々と考えなければならない。そのため、下記に読者をすんなりだませる悪事を列挙する。

  1. 正々堂々、作者に「ごめんなさい」を言わせて、過去の名作を紹介するパターン。むしろ、怪我や病気の場合は作者に無理をさせずに、こちらにしてもらいたい。
  2. 緊急事態用に常に作者に数本のネタのストックをさせておく。ストーリー4コマなどストックが利かない場合は、最終手段として目次に休載の案内を出した後、ストックできる他の人気作者を増ページ・・・とてつもなくひどい話だけれど。
  3. 多くの4コマ作家による1ページの企画ものを2つストック。なお、別物として2つ使うのではなく、「1つにまとめられる2つの企画」を準備し、2つ合体させて掲載。
  4. ウェブ上でも定期的に多くの作者に作品をアップさせ、非常事態時にしれっとその作者のウェブ作品です!とか言って誌面で紹介。
  5. 他社における作者の作品、他誌における作者の作品、もしくは過去に終了した作者の作品とのコラボをストック。絵柄が変わってたら知らない。
  6. 系列の雑誌における4コマ作家ではない人気漫画家に、自作の宣伝用作品紹介4コマを用意してもらう。
  7. 定期的に、ランダムに過去の作品をアーカイブとして掲載。特に、雑誌黎明期などは資料的にも価値があるため、ストックしておいたほうが実はいい。

まぁ、ぶっちゃければ、落とすぐらいならページ数減らすのが一番の対応な気もしなくはないけれど、才能ある作者を限界ギリギリまで追い込んで不滅の作品群を残すいうのは、編集者にとっても作者にとっても読者にとってもなわけで。どこぞの忌野清志郎フォークソングで思いっきり挫折した後、パンクロックで偉大な業績を残せたのは、ひとえに肝臓ぶっ壊すまで自分を追い込んだためである。確実に、そのせいで寿命が縮んだし、もしかしたら不滅ではないかもしれないけれど、追い込まないと出せない表現というものは確実にある。

を伴う表現は、特に。

なお、いかにして原稿を落とさずに量を確保していくかということを考えると、確実に人道的ではない話になる。確実になる。とりあえず、神様手塚治虫氏のアシスタントには過労死した人が何人もいて、本人も若くして亡くなった。それとは対照的に、妖怪水木しげるにいたっては、アシスタントが過労死したなんて話はなく、本人も90歳を超えて矍鑠としている。量を維持するのなら、後者のほうが断然いい。前者は、どうしても悲しくなるから。まぁ、両方とも表現における特異点なのは知ってるけれどもさ。

で、水木氏ではなく、手塚氏の方向へ走った結果、10年前に海藍という有望な4コマ作家とトリコロという笑えた作品が消えていったことも知ってるけれどもさ。

単行本化は地獄道[編集]

さあ、に直接関わる大変に嫌な話だ。けど、作者育てるには、避けて通れない道だ。

2000年代後半に入ってから、4コマの世界に大きな変化が訪れる。それは、連載が単行本化される際に雑誌が大幅プッシュし、様々な媒体を駆使して単行本を宣伝するという、ニッチな業界ではそれまでになかった革命的な手法が主に萌え4コマの世界で始まり、2010年代からは一般的な4コマにも波及。ネットやらなにやらに宣伝費をかけてまでして売らんと欲する作品が現れ始める。

その結果、こけたときどうするかを編集部が絶対に考えてないなんて話も出始める。てゆうか、もうちょっと宣伝する作品は考えるべきだろうという話もチラホラと。

とりあえず、最初に言っておかなければならないこととして、「単行本化する際にバクチに走るのはやめましょう」という、ミもフタもない話である。しかし、宣伝というものの根本には確かにバクチに順ずる要素があり、別に宣伝すること自体は悪くない。けれど、普通、もっと勝てる条件でバクチするもんだろうが、という話であり、作品ごと作者ごと単行本化に賭けてどうする、という話である。特に後者はとてつもなく重い話である。ぶっちゃければ、「アホか」の3文字で表現できるほど、一般的な4コマ漫画雑誌における単行本の宣伝手腕は拙い。レベルが低い。下手。作者殺すために単行本化しとるんけ、と言いたくなるレベルで不味い。

なんせ、おどおどとした初掲載からゲスト掲載を経てようやくに連載にまで昇華し、ようやく顔見せも終わって読者にイメージも浸透して、さてこれから作者も作品も面白くなるときだってえときに、大々的に単行本が喧伝されて、寡作な作者が他誌にまで出張して創作ペースを崩し、さらには売り上げがぼちぼちだったにも関わらず、宣伝費のせいで爆死になって、結果、なし崩し的に最終回を迎えてそのまま作者もフェードアウト。

単行本化の直前、他誌に出向いて元の雑誌に背景が少ない作品が掲載されるなんて話を見るにつけて色々と色々と悲しくなってくる。

てめえら、一回、Googleでその作品検索して、検索結果という名のオッズを見てから単行本を宣伝しろ。と叫びたくなる。

それに、どこぞの少年ジャンプでも信奉されているアンケート至上主義もいいけれど、それはあくまでも雑誌を読む人間が主であって、単行本という一見さんを対象にしたものを売る際には、世の中がその作品をどう見ているかをしっかりとチェックしてから宣伝すべきやろうが。むしろ、闇雲に宣伝費だけ突っ込んで首を絞めるなんて話をするんなら、とっととウィキペディアにでも記事を書いたほうがよっぽど作品の宣伝、というかどんな内容であるかを万人に知ってもらうためのカギになるでしょうが。

ぽっと出の新人が連載化できるまでが大仕事だってのに、それに連載から単行本化までがさらに一苦労だってのに、いきなり単行本化が決まったぜよ、新刊に対するプッシュするぜよ、なんて話が出てから、1ヶ月から2ヶ月ぐらいしか宣伝する期間がない。しかも、新人の作品なんて掲載誌が一つしかない場合が多く、他誌への波及が少なければより効果が薄くなる。そして、雑誌という枠を超えてそれらを多くしたところで、設定を知らない読者の多くを面白い単発ネタでひきつけるというのは、相当困難でハードルが高い、むしろムリゲーに近い。そのため、宣伝費と労力だけ無駄にかかって効果が薄くて売り上げが伸びなくて、結果、連載終了。

どこぞの夏休みの宿題じゃないんだから、普通、もっと計画性をもって売るべきという話だわな。

むしろ、単行本化できるほど読者の支持があっても、ネットでの評判やら評価がさほどなく、新規の客の開拓は見込めなかったら一歩待ったほうがいい。ネットで一見さんの購入数が判断できるなら、無理やり単行本化する前に、もうちょっとガマンをして、もっと他誌への出張と層の違う読者の反応、そしてさらなる浸透を図るべきである。別冊や自社のサイトなど、宣伝費がいらない媒体はそれなりにあるわけだから。

ちなみに、雑誌の表紙を勤めるレベルの作家ともなれば、本の宣伝に際して会社という垣根を飛び越えて広い層に向けた情報発信が期待できる。けれど、新人のぽっと出の、ようやく読者に愛され始めましたレベルの作品が、1ヶ月かそこらの宣伝で大衆に浸透するわけがない。もう1度言う。1ヶ月かそこらの宣伝で大衆に浸透するわけがない。で、単行本化されて売り上げの数字に関係者一同青ざめてそのまま作風に影響が出て2巻が出る前に最終回を迎えて作者のその後が気になって仕方がなくなるという話は、明らかに編集部のミスであり、編集者の力不足でもある。

せめて、宣伝さえしなかったらちゃんと連載終了できたはずなのに、と思われる作品が2010年代に入って激増した背景には、確実にバクチのやり方を知らない、オッズの読み方も分からないシロウトが、宣伝なぞというギャンブルに手を出したせいもある。そもそも、面白い作品は宣伝せずとも広まっていくのがニッチなこの業界のいいところだってのに。そして、4コマ漫画の単行本てえものは、単純に面白い以外に、作者の成長に金を投資しているという部分もあるというのに、その作者を金でぶん回してどうします。金でつぶしてどうします。とりあえず、雑誌で1年半連載できた人間を切って、次の新人を入れて同じく運良く1年半掲載できてもやはり単行本化で切って、もう1回同じことを繰り返すんなら、編集者を切ったほうが早い。せっかくなので太字で書いておく。編集者を切ったほうが早い。それぐらい、新人というものは面白くない。それがようやく面白くなったときに、急ぎすぎた単行本化でその後をつぶされれば、いろんな意味で泣きたくなる。

このように、アホな宣伝で作品がつぶされるなんて傾向が業界で見られるようになってから、無理やり単行本化するよりも、雑誌で長く連載していたほうがマシという話も出てくる。実際、けっこーな人気があるにも関わらず、明らかに単行本化が遅れている作品がある。むしろ、単行本の売り上げなどという判断材料で作品けなされるよりも、そっちのほうがいいや、と思わなくもない。それに、単行本化が遅れに遅れた作品がついに単行本化した際の破壊力といったらもう、ひどいひどいすごいすごい。秋吉由美子さんの「まつのべっ!」やひらのあゆさんの「島の人」などは、雑誌の休刊に巻き込まれたせいで単行本化が難しくなった後、他誌で細々と連載が続けられていったら徐々に人気が出て、最終的に割高にも関わらず2巻で500ページだの、全ページオールカラーだので発売されたらどーん。待ち焦がれた連中が一斉に食いついたなんて話もある。

そらあ、ウィキペディアで記事できるわ。むしろ、したいわ。

もっかい言うわ。そらあ、ウィキペディアで記事が出来て、Google検索で100万件もヒットするわ。だって、ものすごく読みたいんだもの。めっちゃ、読みたいんだもの。結局、他誌や別冊に掲載されたり、雑誌の休刊で読めなくなった話が掲載された単行本なんてものは、愛読者にとってまさにお宝であり、待ち望んでもうどうしようもない信奉の対象である。宣伝費なんざかけなくたって、読んだことのない話が載ってたら、そらあ売れるわ。面白い作品、面白い作者というものは、そういうもんであるからして。

で、果たして、読んだことのない話や、読んだけど忘れた話なんてえものを入れた作品が単行本化されて宣伝されているかしらん。で、単行本化の際に書き下ろしやら、他誌掲載分や、他の作者によるクロスオーバー作品といった、見たことがない、読みたい話を用意できてるかしらん。なぜなら、宣伝てえものは、売ることが主ではなく、売って満足させることが主であって、顧客が満足さえすれば売れる、売れ続けるという話なわけだから。いや、まぁ、人を選ぶ作品もあるけれどもさ。雑誌数年分とっておいてる人間を満足させるよう、単行本作ってるかってえことでもあるわな。

とりあえず、こんな事情がある以上、他誌掲載分を積み重ね積み重ね、それでもなお単行本化をしない作品を支持する。せざるをえない。めちやくちや読みたいけれどもね。

孤高なる植田まさし氏[編集]

一流の4コマ作家と一般の4コマ作家の違いについて。

4コマという作品を4つのコマで考えると、そこには笑いしか存在しない。しかし、8ページ、64コマという存在で見たときに、ワライだけで果たしていいのか、という大きな疑問がわきあがる。湧き上がってくださいお願いします。そもそも、ワライとは、笑いだけで構成されているわけではない。読み手の気分とそのときそのときの世情、何よりも、書き手の体調やらなにやらに左右される一瞬のセンスを切り取って、紙面に貼り付けていることを考えておかないと、主に構成の部分で失敗を犯してしまう。

というのも、ようは読み手と作者の気分をしっかりと作品に換算しないと、笑いだけでは憂鬱な気分の読者をつかみきれず、さらには笑わすだけしかない作者も次第に不満をつのらしてしまう。ひょーげんのはば、というものは、広ければ広いほど融通が効く。

というわけで、ペーソス考えオチ。ちりばめられた笑いの中、すっと挟まれる質の違うネタについて語る。

新聞4コマなど、いわゆる時事ネタを取り扱う作品の多くは、大事件や大事故など、どうしても笑えない話をさしはさまざるをえない、なんて場合が多々ある。そんなときに、たった4コマでじっくりと考えさせる話を作れるか作れないかが、表現者として大きな差になる。植田氏の場合、得意にしていた分野が都会サラリーマンという時点で、長年にわたっていろいろとむつかしい問題に関するネタを挟まざるをえない状況にあった。けれども、植田氏は公害のネタや不良暴走族のネタなど、笑いに直結させることが難しいものであっても臆せずにペンを走らせ、さらには政治の腐敗や増税といった、笑うのにけっこーな知識がいる話も読者にこびることなく、そのままの形でネタとして提供し続けていく。

これができる作者と編集者は、希少である。なぜなら、これは憂鬱な気分を掬うために必須な技術だから。救うではなく、掬うには、そういった気分の読者を引っ掛けるには、笑い以外の要素がたくさん必要になるのだから。そのため、4コマ作家のトップ集団には、情景を書き立てる、ペーソス感ただよわせる4コマや「なんじゃこりゃ?」と思わせつつ、調べてみて「ああ、なるほど」と思わせるようなネタを差し挟む技量、もしくは度胸が必須になる。あわせて、このペーソスやらなにやらをはさむ技術のもう一つの利点は、簡単に言えば、作品が単行本化された際に、一冊まるごと同じ色、同じネタになる、見えるという印象を避けるのに大変有効になる。

飽きられないというのは、それぐらい、笑いだけでは難しい。

で、多くの若手作家が、同じ拍子やらテンポやらで同じよーな構成の中で笑いをいかに提供するかを苦心する中、それを知ってるベテランは同じような笑いに見せかけて異質な色を放り込む。そうすることで、より笑いが引き立つと知っているわけで。そして、そこから笑い以外の感情に餓えている読者の心をつかむことを理解している。笑ったからこそ泣け、泣けるからこそより笑える。考えるからこそ、何も考えずに笑え、何も考えずに笑うからこそ、考えたくなる。これが出来る4コマ作家は、正直なところ、数えられる。しかも、両手だけで数えられる。

結局、植田まさし氏の作品が長く生き延びているわけは、とにもかくにも、笑い以外の要素が強いという話である。また、紙面を作る上でも、笑えるネタ以外をいかに組み込むかは大きい。雑誌全体でより読者を笑わせるためには、スイカに一振りをかける以上の微妙なさじ加減が必要になる。ただし、こういう微妙な話は、2000年代以降には少なくなっていき、その分、けっこーな頻度で忘れられている。なぜなら、いわゆるストーリー4コマというものが登場した結果、こういった笑い以外のが絶対不可欠になったため、雑誌の中ではそういったバランスを取る取らないという話がだいぶ薄れたせいである。

なんせ、8ページ×2列×4コマ=64の枠内の中にストーリーを組み込むためには、どうしても笑い以外の要素を捨てネタとして組み込まざるをえない場合が多く、そういった際に、ペーソスや問題意識、さらには情景や憧憬といったものをその後の笑いの起爆剤やら伏線として組み込むことは簡単であり、多くの作者がそういった技法を駆使している。

が、それは作品を維持するためのものであり、雑誌全体のバランスはともかく、単行本化した際にバランスが取れるかというと、そう簡単にはいかない。

また、そういった作品はえてして情景や憧憬の持つ感動の毒に作者がはまってしまい、どうしてもくどくなりがちという罠がある。説教臭くなったり、小難しくなったりすると、そこで雑誌のその号の色が決まったりする。さらに、単行本になったとき、その毒についてどのような形で読者が受け止めるかを考えて作品を構成していくのは、相当難しい。さらに、巻頭と巻末に似たようなネタが挟まらないよう、1年以上前の捨てネタに注意しないといけないってのは、ある意味、作品のバランスをとる編集者冥利につきる話であるけれど、それを無視した4コマ作品はさすがに厳しい。

いや、感動は確かにいいんだけれど、単行本一冊丸ごと笑いと涙で埋め尽くせば、別の意味で泣きたくなる。無論、情景というものは4コマという小さな世界ですら滅多にかぶることはない、かぶることはないんだけれどもさ。同じ形式の泣き笑いを繰り返せば、どうしても過去の表現とかぶるんだ。もんのすごく。

世の中には映画小説ドラマアニメ、そういった表現の多くが同じ泣き笑いをこれでもかこれでもかと繰り返した歴史があるわけだ。男はつらいよなんてその最たるものであり、そういった繰り返しを行った媒体とかぶるんだ。どうしても。それは、毎日毎日水戸黄門の再放送を見るのと同じ、表現の基礎教育という点ではいいかもしれないけれど、やはりバランスに気をつけないといけない。

なんせ、この方式は思いっきり昭和だから。若者向けちゃうから。まさに、山田洋次監督や東野英治郎氏、さらにはみつはしちかこさんの諸作品と同じところに立つわけだから。と書くと、是非やってもらいたい気もするけれど、さすがに止める。こういった話は、若いときから老成するまで積み重ねないと意味がないから。

というわけで、2013年現在、老成しつつある植田氏の作品群の話に例える。実際、氏の作品には、様々な時事ネタを取り入れられており、単行本になった際、数ヶ月から1年以上たったネタが数多く存在する。数ヶ月後のオリンピックや政治、さらには海外の話題などが新鮮であるはずがなく、時を経れば確実に古びて若者向けではないネタになる。けれど、作者の質、作品の質が維持されてさえいれば、その事件事故を思い出すきっかけにはなり、それがけっこーなペーソスを生み出していく。実際、初期のかりあげクンフリテンくんなどは絶対に、平成生まれでは理解できない話が多く、逆に、当事を知っている人間には順法闘争労働争議といったデモやらなにやら、大量の、本当に大量の懐かしさを感じる作品ばかりである。

しかも、まったく知らない世代でも感じられる人間関係や面白さがそこにあるのだから本当にとんでもない。さういえば、こちら葛飾区亀有公園前派出所でも、日暮巡査というキャラクターがいた。つまるところ、そういう意味である。作品の継続が古びたネタを古びていることが楽しいネタにしてくれる。

これは、新聞の一コマ漫画やニューズウィークの巻頭のジョークと同じ、未来に提供しうる過去の遺産である。言いすぎだけど。けれど、未来に残せる作品という視点で考えれば、ある程度の地盤を整えた後、むつかしい表現から逃げてはいけない。気がする。きっと。多分。たとえ、多くの読者が理解できない作品になっても、時事ネタというもの、ペーソス、情景というものには、いずれ分かるときが来る。むしろ、分からないといけんやろソレという面もある。20歳過ぎてなお、政治ネタがちんぷんかんぷんなんていう話は怖いどころの騒ぎじゃない。無論、これは時代時代の世相という面も強いけれどもさ。

なんにせよ生き延びていけば、たどり着く境地がある。

視線を考える[編集]

書き込みすぎると何がいけないかについて。

4コマ漫画を楽しむ際に、どういったリズムで作品を楽しむかを読み解いていくと、書き込みすぎると読むほうのリズムが乱れるというごく当たり前な結論に達する。そのリズムを崩す原因の一つに、絵の情報量というものがある。デフォルメや集中線、さらには様々な特殊効果を駆使して彩ることで一コマごとの情報量は格段にアップし、その分、読む方には重荷となっていく。なぜだか。とくに、2コマ目から4コマ目にかけて、コマの上辺にかかるレベルでの大きなキャラの動きや特殊効果を多用し、上のコマから次のコマへ視線を落とす際に情報が極端に増加すると、なぜだか視線が引っかかる。

まぁ、なぜだかもクソもない当たり前な話だけれど。

これは、4コマを読む際の精神状態に起因する話である。単純に読むだけ、情報を入手すべく事細かに内容を確認する場合は別に問題はないのだけれど、のんべんだらりとネタを楽しむため、「作品を読む」のではなく「視線を流す」際に情報量過多は苦痛になっていく。暇つぶしの際に特殊表現だらけ、華美な装飾、ストーリー重!、なんていう要素は邪魔以外の何者でもない。逆に、そういったかっる~い内容を支持する層からの篤い支援がこの業界を長年にわたって支え続けている。重くない暇つぶしというものは、それぐらい大事なものである。

そのため、4コマ漫画を楽しませるには一つ一つのネタを重視するほか、およそ8ぺージを苦もなく澱むことなくスイスイと読み進める軽さもまた重要になる。具体的に言えば、4コマ片手に長時間にわたってゲームのレベルアップをするのに最適な作品には、もんのすごい需要がある。

ウィザードリィにおけるマーフィーズゴースト狩り、もしくはドラクエシリーズにおけるメタル狩りに、どれだけ植田まさし氏の作品が役立つやら。読んでる途中で切っても気にならず、読み返す際にページすっ飛ばしても特に問題がなく、なおかつ真ん中から読み始めてもさほど苦にならない。こういった需要を満たすには、いかに情報量を少なく、そしてネタを濃くするかが鍵となる。

そういった用途から考えると、最近の4コマ作品およびゲームでは、片手にコントローラー、片手に4コマ漫画という使用法が難しいかもしれない。

これは、伝えられる情報量が多すぎるのではなく、脳内に押し込んでくるイメージが多すぎるためである。Jpegではなくpngのデータを押し込んでくるレベルで重い重い。回線がやばいやばい。そらあ、レベルアップに集中できんわ。

その主な原因は、作品を読む際に、視線をそこかしこに動かさなければ理解できない、もしくは書いてある情報をすべて読まないとネタが分からないためである。コマの隅々まで情報量をいきわたらせると、ガッツリ読みたい派への需要は思いっきり回収できるけれど、気軽に気楽にスッと楽しむ派にとっては、回線を重くするだけのくどい作品になりかねない。そのため、情報量や特殊効果をいかにして少なくし、まとめていくかもまた、4コマ作品を描く際には大切な表現となる。

こういった、読み手を胸焼けさせないように情報やらイメージを薄めるために使えるテクニックの1つが、引きの構図であり、手元やアイテムのドアップである。こういった表現は、人の視線を止めるついでに、人の思考に一つ息継ぎを入れる。全編まるっとネタネタネターで押し通すよりも、ネタを読む際のリズムを考えて構成を考えないと、単行本化した際に息継ぎできないなんてハメになる上、リズムを持ってコマからコマへと視線を移動させる中で、特殊効果バーン、視線うろうろー、とかいうよりも、ズバっと見せて、一拍置いてから次のコマへ渡すほうが読む方のリズムが保てる。それはすなわち作品との間合いがしっかりと保てることにもつながる。

これは萌え4コマの世界によくいる、作品に近づきすぎたせいで火傷するファンを抑制するテクニックでもある。

けれども、2013年現在、世の中はこういった軽くスタイリッシュな4コマよりもベタ足で至近距離からガンガン殴りあうタイプの作品の好まれていることも確かである。実際、4コマ漫画で描かれる顔一つとってみても、コマ内に収まる顔のアップなども脳の回線への負担はそれほどないのだけれど、その逆であるコマをはみ出すような顔のアップの多用が、いかに視線をとめさせてじっくりと眺めさせるやら。その結果、キャラの魅力が伝わっても、そのまま作品の魅力にはならない。そして、魅力も過ぎれば慣れに、そしてそこを過ぎれば嫌悪に替わるわけで。

とりあえず、顔の超ドアップはストーリーを楽しませる、キャラに入れ込ませるにはいい表現であるけれど、ネタ重視で視線を流す際には相当に重いデータになると見ていい。無論、こういった話は一長一短であり、適材適所で考えればまったく問題はない。特に、普通に面白いストーリー漫画ではまったく問題はないのだけれども、それを構成に慣れていない新人が使ってしまうと、読む側のリズムを崩すきっかけとなることが多い。

スラっと読めば軽いネタであったのに、つっかえまくって読んでみたら、なんもおもろないネタになる。もう1回。スラっと読めば面白くないネタであってもすぐ忘れてしまえるってのに、面白くないネタに手をかえ品をかえて表現を加味しまくったところで、面白く無さが強調されるだけである。そのため、絵を楽しませるとき以外、ネタに自信がないときはなるべく視線をつっかえさせない、リズムを崩さない表現を多用すべきである。

ほんとーに、面白くないネタを強調されるとなえる。読んでいてマイナスのネタをゴテられると指が止まる。んだらば、せめて、かっる~いネタに転用すべきだわさ。

ホームページ[編集]

昔懐かしき、民主党政権時代の話。

どこぞのアンサイクロペディアで、ある日突然総理大臣他関係閣僚のホームページをピックアップするだけのページが作成される。これは、別に最初から笑える話を求めて記事が作成されたわけではなく、ごくごく普通に誰もが知らない事実に触れるための記事、という名目で当初は構成されていた、にも関わらず、色々な目に見えないものが見えるようになった結果、笑うしかない現実が襲い掛かってくるんだからタマラナイ。これは、新聞テレビといった情報媒体が紹介することをなぜかしなかった政治家のホームページというものが、実は情報を発信するための場所であることを知った人間が、具体的でかつ中身の濃い情報を求めようとした結果、より具体的でろくでもない別の情報、平たく言えば「ホームページを作る人間のレベルの低さ」に行き着いたためである。そして、そのホームページを管理する政治家自身の情報発信能力の低さとその情報の質の悪さに反吐が出て、そいつらが跋扈する民主党に目まいを覚え、こんな能力の無い連中が政権を担っているかぎり日本の将来について笑うしかなく、そしてその事実を隠そうとするマスコミのタチの悪さに愕然とした、なんて話につながる。

事実、その恐るべきホームページには、日本の未来も民主党のその後がよーく分かる、分かりすぎる内容に満ち満ちていた。中でもこいつら対外的にまともな情報発信能力を持ってねえという話と、こいつらまともな情報を発信できないことがいかに愚かであるかに気づいてねえという拭いがたい事実が、たかがホームページのたかが一文から、多くの読み手の心に直撃、辟易とさせ憂鬱にさせ嘆息させた。その程度ならまだマシだったけれど。とりあえず、東日本大震災の話すらまともにホームページに乗せられない日本の大臣がいた。しかも数多くいた。ちなみに、ある大臣には、大臣のホームページが存在しなかった。この時点で、日本の中枢に21世紀の情報媒体を使いこなせない、旧世紀の遺物が蠢いていたことがよく分かる仕組みになっていた。

で、なんでどうしてそんな話を4コマ漫画の記事でするかというと、2013年5月の時点で、自分とこの雑誌をグーグルで検索して一番最初に出てくるホームページの更新をすっかり忘れている編集部が現実に存在していたためである。

本当に、存在していたためである。えっと、その、なんだ。民主党と同じ地平に立って楽しいか。新しい情報を求める読者に、古臭い情報とホームページの更新すらしない編集部という現実しか伝えずにいていいんか。ライバル各社のホームページと比べて、いろんな意味で泣きたくなるなんて話になっていいんですか。後、会社上部にこのことがばれたら編集長の首が飛んでも仕方ない話なんですけれど、どうなんですか。付け加えるなら、それでいいのか表現媒体。どこぞの旧世紀の遺物と同じ、旧世代の残骸と化したければ、いくらでも更新しないでよかったんだけどもさ。それで新しい読者取り込めると思ってるようでは、民主党と同じ。繰り返す、民主党と同じ。おまけ、民主党とまったく同じ

結局、情報媒体というものには、常に新しい情報を提示することで信頼を積み重ねる。で、こういう小さいことの積み重ねが、雑誌の販売数や単行本の売り上げに直結するんですが、まぁ、気にしない。きっと、更新しない深い理由があるんだろうからさ、民主党みたいに。

民主党がどうなったかについても気にしない。

上の項目を書いた翌年[編集]

2014年4月、再度再びもう1度、パタリっと更新が止まったどこかの出版社のホームページが存在するのが世の中というものである。まぁ、ページを更新しないせいで、単行本の内容のチェックやらなにやらが滞ったとしても、世間一般の人々および2ヶ月前からチェック済みの4コママニアにとっては特に関係がない話であるけれど、初めて購読しようという人々にとって、情報の停滞というものはやっちゃいけないどころの騒ぎではない。特に、大学デビューや社会人デビューといった人々が多い業界である以上、時期的に最も情報の継続を途切れさせてはいけないのが、及び新年度というものである。

ま、原因その他については分からないので気にしない。採用された新人編集者への業務の引継ぎが旨くいかず、ホームページ更新などというものが粗末に扱われた結果、ついうっかり更新を忘れてしまってしまった、ぐらいであると信じる。

もちろん、ホームページに使用する画像やら試し読み用の原稿をちゃんとスケジュールどおりにもらえなかったせいで、ページの更新が半月も遅れたなんて話は絶対にないものと信じる。信じるだけ。なんにせよ、新人編集者の皆さん。これからも続く続くミスまたミスに懲りずにがんばってください。後、ホームページのアドレスが2つあると、ページを更新した際、古いほうのアドレスが古い情報のまま取り残されるなんて話も多々ありますので、お気をつけください。特に、内部リンクが古いままだと情報産業にあるまじき失態が繰り返される恐れがあります。てゆうか、繰り返されてます。

けど、2週間も情報が更新されないとは思わなんだ。別にいいけどもさ。

後、上のを書いた半年後、某連載のアニメ化を記念してHPのトップにでかでかと貼り付けたバナーが、ものの見事にリンク切れを起こしているなどという話もあるけれど、特に気にすることはない。その経緯について説明すると、最初にアニメ化決定を祝って過去の掲載作品の試し読みができるページを設けてトップページからのバナーとリンクを整備したのはいいものの、誤ってバナーからのリンクを正式名称の「reikan_otameshiyomi」というアドレスではない「otameshiyomi_reikan」というアドレスで設定してしまった結果、出版社にあるまじき理由でリンク切れを起こすことになる。

もっとも、そんな話は序の口で、10月の更新の際に、翌月発売の単行本の試し読みページのリンクの設定を間違えて「manga-time.com」にした結果、トップページのリンクからは前月の単行本しか表示されないという話もある。なお、「www.manga-time.com」という最初の三文字が設定してあるリンクだと、ちゃんと翌月の単行本が試し読みできる。これは、サーバー内部の情報が更新されないままリンク設定だけを最新のもの貼り付けた結果、更新前のページにすっ飛ばされたという話であり、とにもかくにも、気にしないったら気にしない。そもそも、HP内の各雑誌のコンテンツにあるタグについて、HPリニューアル後も内容を更新せずに古いまま放置してはや数年。最終的にキャンペーン情報だのお知らせだのといったページが全部リンク切れ、スペシャルとかいうページがまったくスペシャルでなくなっているのが、あそこのHPの特徴のようなものである。そのため、たとえ自社がもっとも推す4コマがいきなり盛大なボケに見舞われても、古参のファンは気にしない気にしないよくあるよくある。けれど、本当に、2014年の冬のアニメでなくて良かったという話である。

ちなみに、そんな大ボケをかました某社のHPではさらに恐ろしい話が存在。

それは、出版社としては避けて通れない誤植の訂正についての話で、作品を読むに当たり意味が通らない、もしくは明確な間違いが発生した際に、HPにおいて訂正とお詫びが行われているのだけれども、そこでまさに実に困ったというかなんというかやってしまってバンザイうぉいくぉるぁああボケェエエとかいう話がある。それは、2014年10月7日に発売された某4コマ雑誌の11月号に掲載された某作品について、「表情」と「素顔」という言葉が違っていたため、意味が通らないコマがあるという話があり、お詫びして訂正がなされているのだけれども、その訂正文にも誤植があるってどうよ。とりあえず、お詫びとともに84ページの左側4コマ目にあるとされた誤植の場所が、実際には85ページの左側の4コマ目である。でもまああるいみでんせつだからよし。

その後、ようやくリンク切れページをいつもの404に飛ばさずに、リンク切れという表示が出るページに改良。心から、心からアニメ化を推す前でよかったという話と、大丈夫、次のHPの問題が着々と迫っているという話がある。

雑誌休刊後のHP[編集]

2014年10月22日、15年半もの間4コマファンを楽しませてくれた竹書房の4コマ漫画専門誌、月刊まんがくらぶオリジナルの最終号が発売され、HPにおいてもその旨が通達されると同時に、さあこまった、休刊後の雑誌ページをどうしよう、という大問題がやってくる。というのも、竹書房の本社のHPにおいても、4コマ雑誌の専門ページにおいても、しっかりときっかりと、まんがくらぶオリジナルの項目は残っており、いったいいつその項目を外すかが次の焦点となる。

幸い、最終号の発表とともにいくつかの掲載作品の単行本化が告知されており、12月の単行本発売までは猶予は残されていると見ることも可能であるけれど、んだったら、さっさと2013年3月に発刊したまんがライフSTORIAのバナーと専門ページを用意しておかないといけないのだけれども、いかんせん、その、まぁ、某単行本が売れてくれないと雑誌の存続すら厳しいという話があるわけで。そのため、休刊後もまんがくらぶオリジナルの項目が残り続けるのも致し方ない面が強い。もっとも、12月の単行本発売後も残り続けたら、それはそれで情報発信媒体という看板に傷がつくわけで。全ては、11月に発売されるいストーリアの売れ行きに掛かっている。可能性もある。かもしれない。

なお、2015年9月30日、約1年の猶予期間をもって竹書房の4コマ専門HPよりまんがくらぶオリジナルのバナーがまんがライフSTORIAへと差し替えになる。これは、某作品がそれなりに、むしろ竹書房としては相当大きめに売れた結果であると同時に、せっかくなのでどうしてまんがくらぶオリジナルが休刊されることになったからというと、竹書房による読者プレゼントの景品水増しが思いっきり問題になり、国が動いた結果である。とりあえず、消費者庁が動くほどのスキャンダルにいけにえをささげないと、ただでさえニッチ産業の4コマ業界が危ないのは明々白々、というわけで、いきなりの休刊。そして、計ったように合わせたように直後に問題発覚。とりあえず、それでいいのか情報媒体、という話である。

孤高なる植田まさし氏[編集]

編集者の姿が見えない作品、というものがある。まぁ、普通は見えないものだけれど、最後まで見えない作品、というものがある。

多くの売れっ子作家たちが会社の枠を超えて様々な媒体で掛け持ちして作品を発表する中、読むとはなし、見るとはなしに気づいてしまうもの、それが各社の編集姿勢というものである。特に、単行本の累計が10冊を超えるような中堅作家の作品を、各社ごとに読み比べてみればみるほど、そいつは顕著に現れる。一つの連載が終了し、直後に新作を発表したときや結婚妊娠出産といった、作者が人生の転機を迎えた直後。さらには大事件や大災害といった時代が変わる節目を経験したときのような、ひらたく言えば外部からの影響で作者の表現のリズムが定まっていない状況下において、読み手が編集者やら編集部といった作者の周囲のにんぐえんかんけい、すなわち関係者の影を感じることが可能になる。実際、新作を計上した際、どう時代を捕らえればいいか、読者にどう伝えればいいかという作者とその周辺の人々の暗中模索がよーーーく見える。これまで無かった急展開、新キャラの登場といったバレバレの影響の他に、旧来の作品には無かったを挟み込んだり、やけに力を抜いたコマを使用し始めたりする中に、それまでの作品とは違う編集者の存在がよおおおおおく見えてくる。

なお、その昔、困ったらメイド出せばいいというたわけた時代が確かに存在し、そのときは、編集者の影どころか、まで見えたという話もある。

んで、色々と見えてくれば、編集者の質もやはり見えてくる。特に、新作になってから&単行本が出てから急にリズムを取れなくなった作品なんてえものに触れるにつけ、ぅぉいくぉら編集者の思いを強くする。そして、どう見ても、設定の段階からしてその作品の寿命が見えるやろと、物語の開始直後に突っ込みたくなる作品については、心から編集者を恨みたくなる。どう見てもどこぞの大ヒット作・・・はまずないけれど、中ヒットマンガとネタや設定がかぶってるのが丸分かりの作品が出る、ぐらいならかまわない。かまわないんだけど、問題は、そういった作品が1本2本ではなく周囲に氾濫してしまうと、見たくもない先が見える見える。飽きられたときにどうなるかが手に取るように分かる。で、その作品を描く作者と掲載する編集部、そして作者の周辺の状況の変化が心配になる。ぶっちゃければ、その作者についた編集者が作者を殺すんじゃないかと心配になる。

結局、メイドが出てくる4コマで生き残った作品を数えてみれば、それが杞憂じゃないことぐらいよーく分かるわな。

もちろん、それとは逆、作者と編集者を交えたにんぐえんくあんくえいが作者の変調を抑えるという面もある。実際、作者の引越しや転職、場合によっては学校からの卒業といった周辺状況の変化が多くの作品に変化をもたらしたことは確かで、そういった機会を影ながらサポートすることで、作者及び作風を守ったという編集者および編集部の話は、4コマを含めた表現に関わる世界にそれこそごちゃまんと存在する。で、時たまそういった影ながらのサポートが表に出た際に、普段は知られぬ関係者の力量が見て取れ、と同時にそのサポートが読者としても色々とうれしくなる。中でも、2011年の東日本大震災発生当時、日本人の多くが人生感を変え、それが表現を生業とする人々に影響を与えてもおかしくはなかった状況下で、粛々と実害を受けた4コマ作家たちをサポートし、創作活動にまい進できる環境を整えた各社各雑誌の編集部と編集者の見えない努力については、本当に頭を垂れたくなる。特に、震災当時、岩手県遠野市に在住していた他称四コマ王子小坂俊史氏の表現力、ちゅうかリズムを守り抜いた関係者の尽力は、彼の作品から悲劇によってリズムを崩した痕跡を見て取れない分、とんでもないぐらいありがたい。

それぐらい、表現というものは、人生感に直結している。

けれど、そういった作者の影に見え隠れする存在が見える見えない以前に、存在に気づかない作品もある。正確に言うと、そういった本人の人生の転機や日本史に残るような大事件大災害をネタに昇華する能力、もしくは割り切るよう心の中で消化する能力に長けた作者は、えてして外部からの誘導で背伸びさせられてネタ出しをコントロールさせられ、魂削るレベルで無理やりな作品に思い悩むことなくシレっと、そそくさと、もしくは淡々とそれらの事象に対峙。自分と世界との距離を上手くつけることで自らの表現を波立たせない=読み手が安心できる。そういった作者の作品からは、編集者の影どころか編集部のスタイルすら匂いが消え、同じ掲載誌の他作品の寿命を見えづらくさせる。むしろ、編集者がいるの?編集部に隠された方針って何?と思いたくなる。結局、こういった他作品にも好影響を与えるという強みを持つ作者が超長期的に連載し続けていくことで、それぞれの4コマ雑誌が編集部の姿勢と編集者のレベルを無体な読者から隠蔽。4コマ各誌ごとのある種独特な存在感をかもし出すことが可能になる。

で、そういったふとした瞬間に垣間見える編集者の影について、ほんといえば実力があればまったく問題はない。常識を持ち作者を支え、仕事をこなして時代を読みさえすれば、ずえんずえん問題なんざあるわけない。けれど、そうじゃない場合、編集者のレベルやら編集部のスタイルが丸分かり、ついでにその欠陥すら丸分かりになるような雑誌については、色々とその後に不都合が出て当然なわけだ。そして、そういった編集部に対する不信がほとんどまったくインターネット上に拡散していない4コマ漫画の世界は、ある意味、平和な春の山里といえる。でも、それとは逆、まったく逆の某少年誌における編集方針への不信についてたとえるなら、愛すべき作品を殺そうとする編集者を殺そうと、読者が群れをなして吶喊(とっかん)してくる戦場、としか言いようがない。しいて言うなら、日露戦争の旅順攻撃レベル。で、多くの場合、それは作品を盛り上げるための伏線、さらには誤解であったとしても彼らは吶喊してくる。不信とは聞く耳を持たないことで成立するのだから。そして、4コマ雑誌の平穏にしたって、第二次大戦直前のような仮初めの平和にしかすぎない。質の低下は、いつでもどこでも、そして誰であっても起こりうるのだから。ある日、気づいたら真冬の山の中に放り出されていた、なんて話があるかもしれない。

というわけで、しれっと4コマ月刊誌連載30年選手の植田まさし氏と編集者の影について。

氏の多くの作品に言えることは、作品のゆれ、リズムの変化から何かを見出そうとしても、ほとんど何も見出せないという点に尽きる。何とかして探そうにも、氏の作風はいわゆる小市民の身近な世界を切り取った作品が多いため、編集者の意見や編集部からの要請といったスタイルに合わない無理くりな部分がまったくといっていいほどなく、売れたい!伝えたい!表現したい!といった新人作家によくある、コントロール間違うとすんげえええ押し付けがましい想いとはまるで違う世界がそこに存在している。無論、過去をさかのぼればいくつか編集者の影を確認できる作品は存在してはいる、とはいっても、かりあげクンフリテンくんの初期、もしくは1990年代にまんがライフで連載した植田氏唯一の動物マンガであるにこにこエガ夫動物の視点による田舎の世界を描く際に、他者の意見を参考にしたような痕跡が見出せる程度である。

もちろん、麻雀漫画だったフリテンくんから麻雀が影も形も消えうせたのは、確実に編集部の方針が関わっている。しかし、そのことで作品そのものが大ヒットしているのだから、下手な編集者の介在でリズムを崩してネタがぶれてるなんて痕跡なんざ見えるわけがねえ。また、それとは逆、おとぼけ課長まんがタイム)で12ロール入りのトイレットペーパーの数が違っていたことに作者も編集者も編集部も気づかず、うぉいくぉらチェック機能と、読む方を嘆かせたなんて話もあるけれど、正直、そんな話はどこにでもあり、たまたまそれが業界最高峰のまんがタイム編集部であったという珍事にすぎない。そのため、いつまでもどこまでも作者が無理をする無理をしているような表現は皆無のまま、植田氏はいつまでもどこまでも飄々としたリズムで作品を刻み続けている。

このように、編集者の影を見出せない作品というものは、おっそろしいまでに自分のリズムで作品を作り続けることが可能になる。

んが。しかし。だけれど。ひとたび自分のリズムを維持できない手探りの状態での試行錯誤が始まってしまうとあっという間に、恐る恐る、びくびく、さらにはしどろもどろというリズムが作品に織り込まれてしまう。4コマは、それぐらい各作品と作者にリズムが存在する。そのため、自分の知らない世界を描くという苦行にひとたびぶち当たると、それはそのままリズムを崩し、そしてスタイルやら作風も崩すことに直結しやすいちゅうことでもある。そのため、どうしても編集者や編集部の助力が必要となり、それが明確に作品から見て取れるようになる。無論、それで面白ければまったく問題はないけれど、けれど、けれど。けれど、リズムを崩したまま作品が崩れていくことがようけある。ありすぎて嫌になる。そんなときに重要になるのは、作者と編集者、そして編集部がその作品をどうするか、である。

とりあえず、作者が創作を続けられるように作品を終了させることが出来るか、である。作者が崩れることをいかに防ぐか、である。

果たして1年半の連載で単行本1冊計上した後、普通に連載終了することが正解がどうか。場合によっては、単行本未収録のほうが傷が浅くはないか。なんだったら、1回しか掲載しなくてもいいんじゃないか、などなど。とりあえず、何事も経験という意味では大事だけれども、自分のリズムではなく人のリズムに乗せた表現というものは、実は作者の人間関係へのダメージが大きい。編集者への不信が芽生えてもおかしかない。そして、表現したいという根本的なエネルギー源については、もっとダメージが大きい。無論、編集部と編集者サイドにおいても、表現をコントロールする力の無さが丸分かりになるというのはダメージ云々どころではなく生死に関わる話になる。もちろん、そうやった作品が売れていれば仕方がないけれどもさ。んが、そういった作者自身、表現のリズム=自分の思い通りの表現てえやつが取れない作品が売れるときは、どうしたって時代という名の暴虐と付き合わないとならないのだから。

暴虐、すなわちまんがタイムきららの話はしない。関係なくはないけど少年サンデーについても騙らない。けど、4コマに関わる人間が表現し続けたくなるような環境を整えるには、どうしても編集者と編集部の不断の努力が必要になる。とりあえず、メイドが氾濫した時代、表現を続けたくなる終わらせ方が出来た作品がどれぐらいあるかは知らない。

で、ときたま、そんな努力をしていない編集部が見てとれてがっくりくる。普通、編集部の質を見て取れるのはその雑誌の中身だけだろうに、上記のホームページの話のように、2ヶ月間も自分とこの雑誌に連載している作品の宣伝を放棄したなんて話を見ると、本当にがっくりくる。読者がそうなら、連載陣はどうなんだろう、と思わなくもないけれど、考えるだに恐ろしいので考えないことにする。

せめて、発売の1週間前~3日前には次号の予告を上げられるような編集態勢を維持しといたほうがいいと思うんだ。心から

編集後記[編集]

2年以上にもわたって長々と4コマの話を続けていると、ときどき、インターネット上ではなく、現実の世界のほうでこちらが予想だにしていなかった話にぶつかることがある。しかもけっこーある。中でも3年前まで、あれほど世間に氾濫しまくって、表現の世界で暴虐をかこっていた萌え4コマはだいぶ落ち着き、徐々に撤退戦を考える時期に入っている。宮原るりさんの恋愛ラボのアニメ化なんざ、まさにもうちょっと中身の濃い4コマ漫画への入り口として最適であり、より中身でひきつける4コマを知るきっかけ足りうる話である。これは、東日本大震災以降、若者サイドの思考に大きな変化が生まれたことを暗示しており、いつものように表現の世界に時代の変遷が訪れた結果、まーた生き残りを数える作業が始まるかもしれないと思うと、軽く戦々恐々できる

まぁ、けど、今度は萌え漫画のほうがそれをやる番だわな。

そして萌え漫画の氾濫以上に深刻な問題だったほぼ100%のコマに吹き出しがあった4コマ雑誌がようやく過去のものとなり、雑誌掲載される各漫画のリズムがまったく同じ、新人と中堅作家のリズムがほぼ同じという新人挽肉機状態が終わりを告げる。これは本当にありがたい。なんせ、これでようやく表現のリズムの違いを武器にできる手錬れのギョーカイ人が増加できる体制が整った、気がする。きっと。

そして、一番ありがたくもありがたくないこととして、竹書房の4コマ雑誌で有名作家陣による4コマ漫画創作に関するアドバイスが始まってしまう。うん、おもっくそネタをつぶされましたが、何か。むしろ、ネタがつぶされてありがたいよこんちくしょうおかげでよりおもしろいまんがをたのしめるかのうせいがふえるけれども、んだらばせめてしんじんいくせいで精度疲労が見え始めた2008年ごろからやってくださいなまつたく。

けれど、創作関連でネタがかぶるような話ができなくとも何かネタがあるだろう、ということでインターネットにて各社のホームページに目を向けると、各社のホームページが実はネタの海だった。本当に、ネタだらけだった。この件については、ネタを見つけたことを心底後悔したけれど。けれど、さすがにそれはまずいだろう。

ちなみに、2013年7月26日現在の話として、2013年5月に自分とこの雑誌のページの更新を忘れてたのが芳文社で、自分とこのホームページにある4コマ作家のブログへのリンクがやばいことになってるのが竹書房である。2大巨頭でこれなんだから、双葉社をはじめとする後発組は、インターネットで勢力を挽回できる可能性があるし、ぜひとも、挽回してほしい。まぁ、それぐらい、穴のあるホームページというものについてはを吐きたくなる。

最後に。この記事の冒頭で伝えた、さいわい徹氏の描いた子供向けの学習漫画が、大ヒットした山崎マリさんの漫画「テルマエ・ロマエ」以前に水周りの専門職とするローマ人がタイムスリップして日本にやってくるという話を先取りしているとして、インターネットで一時期話題になる。ひょーげんしつづけてればいつかはこーいった話もでてくる。ことがある。それが、いつまでもいつまでも忘れようとしない読者にとって、本当にうれしく思える。ときもある。

関連項目[編集]