ジャン=ポール・サルトル
ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre、1905年6月21日 - 1980年4月15日)は、20世紀髄一の哲学者で、その全てを語りつくすことはできない。もしも彼がカーレーサーや宇宙飛行士だったなら、大変な有名人にもなっていただろうが、実のところ彼は、有名人が動かすわれらが文化の大海の一滴に過ぎない。今日彼が仮にも記憶にとどまっているのは、主にチーズについての思索と、尊大でいやな人間どもによる、彼についてのほんの少しの言及による。
若かりし日々[編集]
ジャン=ポール・サルトルはパリコミューン支持者の暴動の後にフランスで生まれ、ジミー・サマヴィル[1]の処刑を目撃した。誕生してからというもの、彼は稲妻のごとき敏速な知性と、広い世界における人の無意味さに対する鋭い感覚と、経験をことわざっぽくする能力を示した。『私のやぶにらみは孫の代まで続くだろう。』
彼はよく金切り声を上げたが、それが彼のやぶにらみに拍車をかける主な原因となった。
彼は平々凡々学校1年生のとき、さまざまな種類のレポートを提出し、散々おべっかを使って、次から次へと賞を受けた。しかし、おそらくはその学問における早すぎる成功を疎まれて、彼はクラスメートから陰湿ないじめを受けた。このことは後に彼の有名な戯曲である『弁当代を返せ、さもなくば彼らを有罪となさん』において事細かに語られることとなる。
これもまた学生時代の話だが、彼はある女性と出会った。生涯にわたる女神でありミューズでありゴミクズである、シモーヌ・ド・ボーヴォワールである。ボーヴォワールはサルトルより2学年下だったが、彼の世界には輝きが訪れたのである。サルトルは彼女を、豪華な社交パーティーに招待した。そして彼は童貞を捨てたのである。ボーヴォワールはこのことを後に回顧録に書き残しているが、それによると
とのことであった。
戦時中サルトルはフランスのレジスタンスのメンバーとなった。この間彼が執筆し、上演し、出演した舞台は、時のヴィシー政権の終わりを3分くらい早めたかもしれない。
実存主義のマホメット[編集]
ああ、戦後のパリ。生きていて、こんなに絶望的な時があったろうか? さて、西洋の野郎どもの意識に対する実存主義の論文『チーズの電磁的特性』の一斉射撃のごとき公表のために、サルトルは瞬く間にフランスの主な下半身の知識人のランクにのぼった。サルトルは間もなくカフェに住み始め、メニューの上に猛烈に書きなぐりつつ、多くの助手と意見を戦わせた。その中には、若きアレルゲン、アルベール・カミュもいた。
彼とボーヴォワールは、この期間中に、彼らの特別な関係の条件を定めた。この協定の条件によると、サルトルは水曜日と金曜日と日曜日ごとに、ボーヴォワールは残りの日に、交互にアパートを使うことになっていた。部屋代は4割から5割、そのうち食費は5分5分で負担し合った。それから、ガスなどの公共料金は4割から5割負担だった。消費期限がラベルに明記していなかった限り、冷蔵庫の中身は3週間以上経ったらどんな食品でも捨てることに同意した。彼らは、お互いの負い目を清算するために、週に一度会った。そのころ、ボーヴォワールの目を盗んで、サルトルは幾人かの若いフランス女としっぽりやったことだろう。
サルトルは、ジークムント・フロイト、バートランド・ラッセル、ジーン・メルロ=ポンティ、アイザック・ヘイズ[2]、フィデル・カストロ、テッド・ニュージェント[3]を含む他の知識人との有意義な関係を進展させた。
フィロ-ボクシング[編集]
サルトルがフィロ-ボクシング(ソクラテスの猛烈な議論と血なまぐさい酒飲みの国アイルランドのベアナックルボクシングを合わせたスポーツ)を開発したのには、ジークムント・フロイトとテッド・ニュージェントの影響があった。
ヘビー級チャンピオンの「シシュポスのカミュ」を破った後の1946年に、彼はノーベルチャンピオンベルトを受け入れることを拒否した。そして、「あらゆるフィロ-ボクサーは、単にリングにいるだけだ。つまりだね、我々がどんなタイプのボクサーになるかは、まったく我々次第なんだ」と、デイヴィッド・レターマン[4]に語ったが、よく意味を分かってもらえなかった。「しかし、(私のような)フランス人である以上、その口にする言葉は、馬鹿なアメリカ人どもが言えるどんなことよりもはるかに知的なのだ。この、太って、すっとぼけた豚野郎!」
存在と無とチーズフォンデュ[編集]
1959年に、サルトルは彼の傑作、『存在と無とチーズフォンデュ』を書き上げた。それは、人間社会における道徳と話し合いの根本的な源とチーズフォンデュについての総合的な分析に他ならない。サルトルの論旨は、冷たく強い光を放っており、目もくらむほど単純であるが、それは以下のとおり。
- 人が一人誕生する。
- 人がもう一人、彼の仲間の意識により生まれる。
- 人は、社会現象学に没頭する……おっと、ちょっと待ちなさい、これにはちょっとコツが要るのだよ…自意識の現象学の……うん、私の言っていることはそういうことだと思いなさい、うん、すばらしい。
- あなたが知っていることを私は悩んだりしない。これを読んでみて、何らかの意味が見出せるか考えなさい。もし見出せたならば、私はあなたを尊敬するよ。
- パンを溶けたチーズにつける。
老年期 「もう以前のようにはいかない」[編集]
シャブとタバコと爪楊枝に刺した肉団子の生涯にわたる摂取によって衰弱したサルトルは、トイレで彼の晩年の大部分を過ごした。彼は、心臓切開手術や原子物理学やアッティカ後期の詩のかぎカッコの位置など、彼がまったく話す資格がなかった問題について幅広く書いた。ボーヴォワールはこの間ほとんど、彼につきそっていた。そして、彼が意識を失わなかったことを確実とすべく、編み針を彼の革のように硬い肉に突っ込んだ[5]。
死 「いまやもう何もできない」[編集]
1980年1月6日、サルトルは、長いこと執筆し、夜になってすっかり疲れたころ、静かに書類を片づけて、ベッドの足元に腰掛けて、タバコをもみ消し、グラスを片付けて、横になった。そして、すぐに寝入ってしまった。朝の7時半、朝の最初の光が一筋、彼の上をそっと照らしても、ジャン=ポール・サルトルは眠り続けた。
それからしばらくして、彼はチンチン電車に轢かれた。
ジャン=ポール・サルトル、エピソードIV、新たなる始まり[編集]
死んだ後、サルトルは生きていたときより注目された。彼は彼自身の遺作(ベストセラーの料理本を含む)のいくつかを発表後、「クロックおじさんのブロック(土曜日の朝の子供向けテレビ番組)」の司会になった。彼は現在、腐敗しつつもマイアミビーチに通っている。
彼は相変わらず堅物のままだ。
サルトル哲学の基盤[編集]
サルトルの実存主義哲学は、現象学哲学を下敷きにパクっているといわれる(当時の風潮であるので彼の罪にはできないが)。ちなみに現象学哲学とは第二次世界大戦中に病没した自称哲学者のフッサール(理論的潔癖症・強迫観念症のノイローゼだった人)が創始したトランス系の哲学で、睡眠薬の代わりに非常に有効である(ただしやりすぎると精神に変調をきたすために注意が必要である)。さて、一説によればサルトルはフッサール哲学の前半しか理解していなかったそうである。つまり自我の「能動的側面」しか念頭になかった。そのためにフランス人らしい性急さで、やたらとポジティブな思想を展開することとなった(加えて小金を持っていたために、社会の現実を省みる必要もなくその傾向が加速した)。
関連項目[編集]
訳者注[編集]
- ^ 歌手。日本で言えば、槇原敬之といったところでしょうか、いや、これはやはり失礼ですね、ジミーに。共通点は……分かるでしょう?
- ^ 歌手。
- ^ ロック歌手。
- ^ コメディアンで司会者。日本で言うところの明石家さんまでしょうか。
- ^ 向こうの有名な小話です。ざっと言いますと、
二人の男が狩猟に出かけたのですが、一人が急に泡を吹いて倒れてしまいました。相棒はあわてて救急車を呼ぶため電話をします。電話を受けた相手は、この男の説明があまりに要領を得ないため、「まず、あなたの友達が生きてるのか死んでるのかはっきりさせろ!」と一喝、すると電話越しに一発の銃声が響き、「うん、はっきりさせたよ!」との声。
面白いんですかね、これ。