スコピエ

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スコピエ(Skopje)とは、マケドニア共和国の首都。中央をヴァルダル川が横断し、川を隔てて南北に街は分断されており、北には貧乏人やゴロツキが蝟集する雑然とした旧市街が、南にはセレブな連中が闊歩する整然とした新市街が広がっており、格差社会を如実に現出した町並みとなっている。時々、旧市街の住人達が、旧市街の住み心地の悪さに嫌気が差して、ヴァルダル川を渡って新市街への「亡命」を敢行して来る。キューバや北朝鮮のように亡命を阻害する権力者の犬こそいないものの、亡命者の多くはヴァルダル川を渡る途中で力尽き、新市街に行けず死骸となって下流に漂着する。

特色[編集]

海抜300メートルの高原盆地に立地し、四方を山に囲まれている。中でも目を引くのが南にあるボドノ山である。ボドノ山は自殺の名所として知られており、人生に行き詰ったマケドニア人が国中から蝟集し、ここから身を投げてゆく。マケドニアは決して経済が豊かではなく、コソボの難民問題もあってボドノ山から飛び降りる自殺者の数は多く、ボドノ山から飛び降りる人を減らすことが国家の懸案事項となっている。山の頂には自殺者達を供養する為に設立された巨大な十字架が屹立している。マケドニア政府は自殺防止の為、ボドノ山の観光地化を推進しており、2000年代以降は山道に変な露店が並ぶようになった。

都市名の由来[編集]

スコピエを設立したのはおフランス人だと言われている。彼の名はピエール大公といい、西フランク王国の君主だとか、ハプスブルクの一門の生まれだとか言われているが、詳しい業績については一切が不明である。ピエール大公がいつ頃スコピエを設立したのか、明細には判らないが、古い文献の記述などを勘案するに、7世紀から8世紀、もしくは9世紀から10世紀ごろではないかと言われている。

スコピエは、元々ヴァルダル川を挟んで屹立する急峻な断崖であった。ピエール大公は、スコップを片手に断崖を切り崩して街を作ったのである。スコピエという名前は、スコップで街を作ったピエール大公に由来している。ヒエーおろう!

歴史[編集]

ピエール大公によって街が建設されるより以前、まだ土地が平坦化されず断崖であった頃は、古代ローマ人達が断崖の上に要塞を建造し、前線基地として使用していた。帝国の衰微に伴い要塞は廃棄されたが、一部のスラヴ人が定着し、彼らは後にピエール大公による街の建造に協力することとなる。

14世紀末にオスマン帝国によって占拠され、5世紀近くに至って占領下にあった。スコピエを占領したオスマン帝国だが、街の人々の反撥は激しく、帝国は弾圧を敢行、街の名前を「ユスキュブ」という発音しづらい名称へ強引に改名し、設立者であるピエール大公の銅像や顕彰碑を徹底して破壊し、関連する文書は焚書に処した。さらに街の人々には、ピエール大公の肖像画を踏ませる踏み絵を強制させ、ピエール大公の影響力と、町の人々の大公への郷愁を払拭させることに腐心した。帝国の弾圧のために、ピエール大公の業績を伝える石碑や史料は殆ど後世に残っていない。

20世紀に入り、ようやく帝国の支配から脱却、名称もスコピエに戻される。街の人々の多くは今までユスキュブと呼ばされていた街がかつてスコピエと呼称されていたことも、ピエール大公のことも、全く忘却していたが、かつてユスキュブがスコピエと呼ばれていたことも、呼称が再びユスキュブからスコピエに戻されたことについても、誰も気にしなかった

よく壊される街[編集]

オスマン帝国がいなくなった後、スコピエはブルガリアギリシャセルビアら周辺諸国の草刈り場となった。スコピエは幾度と無く戦場になり、破壊された。紆余曲折あってユーゴスラビア王国が確立すると、スコピエはその中に組み込まれた。パルチザン運動が盛行する中、スコピエでも頻繁にテロが起きるようになる。そしてテロが収まったかと思えば、今度は大地震が起こり、街の殆どが倒壊するという惨事に見舞われる。その後もテロが無い時は地震が、地震が無い時はテロが勃発し、その度にスコピエは壊され、住民達は図らずも街の創設者であるピエール大公がそうしたように、スコップ片手に瓦礫を押しのけ街を再建しなければならなかった。

そんな不幸続きのスコピエに朗報が入る。マケドニア共和国が独立し、スコピエは晴れて首都に制定されたのだ。街の人々は欣喜雀躍したが、すぐさま首都認定されたことが朗報ではなく凶報であることを思い知る。嫉妬と怨嗟をむき出しにしたギリシャ人が、本当のマケドニアは俺達だ、お前らスラヴ人がマケドニアを名乗るなどおこがましいと憤激し、マケドニアに対してテロさながらの嫌がらせを行うようになった。当然、首都であるスコピエは、最もギリシャ人の嫌がらせを受けることになった。おまけにコソボ紛争によって流出してきた難民までもがなだれ込み、スリや強盗を働く彼らとの確執が原因で騒擾が発生している。

今日もスコピエの人々は、ギリシャ人の嫌がらせとコソボの難民による破壊活動と地震を恐れ、気も休まらぬ日々を過ごしている。