マトボッククリ

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マトボッククリ(Matobokkukuri、ラテン語: MATBOCCUCRIUM、葡: Matboccucrio、英: Mutbotcookry、仏: Mateauboquecrie)とは、世界のエクゼクティブの間で収集されているコレクターズアイテムの1つ。

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マトボッククリ

概要[編集]

古代より時の権力者・大富豪達を魅了させていたものだが、その姿形は公にされていない。現在地球上にある資源は全て採集しつくされており、手に入れるにはごく僅かに流通されているものを取引するしかない。このことから大変希少価値がある。これを収集することは、現在先進国のエクゼプティブの高貴なたしなみとされる。

かつて一度その存在を世界的に否定され、当時あったマトボッククリの殆どが処分されたが、後述する技術革新によって再び手元で愛でることができるようになった。この技術革新以前に存在したマトボッククリを旧マトボッククリ、それ以後のものを新マトボッククリ、あるいは単にマトボッククリと呼び区別される。なお、国際的に各言語の呼称ではなく日本語のマトボッククリ(Matobokkukuri)と呼ばれるものは、後者の新マトボッククリを指す。

ウィキペディアでは都市伝説であるとされるが、これはウィキペディアンにマトボッククリを保有するに足る、経済的にもステータスの上でも高貴な者がいないことに起因している。

なお、旧マトボッククリについてはユネスコによって公式に黒歴史であることが発表されていたが、現在ではインターネットの普及によりその全容が明らかになりつつある。

旧マトボッククリの歴史[編集]

古代[編集]

歴史上最も古く旧マトボッククリ(以下マトボッククリと記す)の存在が文献で確認されるのはローマ帝国の頃で、アウグストゥスが三頭政治で頭角を現した頃、アレクサンダー大王が残したとされるマトボッククリを求めエーゲ海の島々へ遠征を行い、見事持ち帰ったとの記述が腹心アグリッパの日記に確認できる。その後一旦存在が確認されなくなるが、五賢帝の時代には皇帝の証として代々受け継がれるものとなった。アウグストゥスがマトボッククリ所持後ローマの内紛を制したことや、最後の五賢帝マルクス・アウレリウス・アントニウスが後漢への贈答品としてただ一つのマトボッククリを使者に持たせたことが彼の死後ローマの混乱の原因になったとされることから、マトボッククリを支配するものは世界を制するとまことしやかにささやかれるようになった。

一方、先述の通りローマによってマトボッククリがもたらされた後漢では、一旦皇帝の元にマトボッククリが納められるが、その後宦官たちが奪い、大人のおもちゃとして粗末に利用した。その後の中国では三国時代から南北朝に至る分裂・混乱の時代が続いた。その後の皇帝が保有することとなり、玄宗の代まで続いた。

中世[編集]

中東[編集]

中世になると、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世がマトボッククリを発見したが、死後、妻テオドラの親族に奪われた。またイスラームではウマイヤ朝の創始者ムアーウィヤにより発見され、その後アッバース朝、そしてオスマントルコに引き継がれた。

東アジア[編集]

東アジアではチンギス・ハーンが発見した[1]のをきっかけに、再びマトボッククリが指導者の元へ納められた。その後マトボッククリは元・明・清の皇帝の持ち物となるが、各王朝の晩年には次から次へと人の手に渡り、相変わらず明では宦官の、清では西大后などの権力者達の大人のおもちゃとして利用された。

ヨーロッパ[編集]

ヨーロッパでは十字軍が実施されると共にイスラーム圏よりマトボッククリの存在が伝えられるが、当時はこれよりイエス・キリストの聖骸物を手に入れるのに必死で、殆ど興味は持たれなかった。

ルネサンスに入りローマ時代におけるマトボッククリの珍重ぶりが知られると次第に各地で探されるようになった。ただローマ教皇庁では相変わらず聖骸物が重視され、マトボッククリは見向きもされなかった。マトボッククリは東ローマ帝国領内で遠征した十字軍により発見され、当時のローマ教皇インノケンティウス3世に納められたのだが教皇は聖骸物ではないことに怒り、バチカンの納戸に半ば捨てられるように格納された。この長い間放置されていたものをメディチ家の当主ジョヴァンニによって発見され、そのまま手に入れたというエピソードが残っている。

その後メディチ家は盛んにマトボッククリの所持を喧伝し、あらゆる局面でその存在をちらつかせた。この成功によってマトボッククリ探しは一気に過熱した。しかし発見することは極めて困難であった。

近代[編集]

探索・収集の機械化[編集]

高まるマトボッククリ熱の中、レオナルド・ダ・ヴィンチはパトロンであるメディチ家収蔵の実物とラテン語で残されていた資料を参考に、世界で初めてマトボッククリ探索採集機を考案し、スケッチとして記した。ダ・ヴィンチのその他の発明品とは異なり、この機械は瞬く間に実用化され、発見率を大幅に改善させた。これをきっかけとして、マトボッククリの所持がヨーロッパ貴族で一般化され始めた。

ところが、機械によって発見されたマトボッククリは手によって発見されたものと異なり、表面に傷がついてしまう。これが明らかになったのはマリー・ド・メディシスがフランス王国ブルボン朝に嫁いだ際、夫アンリ4世が見せびらかした3種類の機械によって発見されたマトボッククリのコレクションにそれぞれ異なるパターンの傷が入っているのを見て、実家メディチ家のマトボッククリと比べて見劣りしていたので大変狼狽したことによる。

そこでマリーは手によって発見された傷の無いもの、機械により発見された傷のあるものを等級として区別する皆の勅令を発布した。これがフランス文化の流行と共に広まり、世界基準となった。

その後も4種類の機械が実用化されたが傷がつく問題は解決されなかった。

市民革命とマトボッククリ[編集]

16世紀初頭ごろ、宗教改革をきっかけとしてマトボッククリの存在が一般庶民にも知られるようになった。マルティン・ルターは、世界で初めてマトボッククリの高額な維持管理費に触れ、これがメディチ家出身のレオ10世を教皇とするヴァチカンに拝金主義をもたらしている一因ではないかと主張した。

市民階級の有力者の間では、当初マトボッククリは破棄されるべきという考えが支配的であったが、その不可抗力が知られると、急速にマトボッククリにはマトボッククリで対抗すべきという信条がこれに取って代わった。

この考えが初めて実践されたのがオランダ独立戦争である。市民たちはオランダで唯一マトボッククリを所有していたオラニエ公を祭り上げ、更なるマトボッククリを得て独立を実現しようとした。この企みは功を奏し、オランダはインドネシアを得て海上帝国の時代を謳歌するに至った。

この劇的とも言える成功から、その後アメリカ・ヨーロッパで起こったあらゆる市民革命はマトボッククリをめぐる争いが切っても切れない存在として発生することになる。

フランス革命でこの傾向は最も熾烈を極めたものとなった。王室および王党派からのマトボッククリ没収が一段落すると、これら所有者のないマトボッククリを巡り革命勢力はたちまち派閥に分裂して争うこととなった。中枢を握ったジャコバン派はマトボッククリの所持を禁止し、破壊運動を展開。これに反する者を次々と処刑した。これこそが恐怖政治である。ところがリーダーであるロベスピエール自身もマトボッククリを隠し持っており、これが発覚するや否やジャコバン派は混乱の渦に巻き込まれ、瓦解した。

学術研究[編集]

ブルボン朝のフランスでは、所有者の増加に伴って王室の権力維持のためにマトボッククリの影響について明らかにする必要に迫られていた。これに応える形で、政治学・地政学の分野を中心に、マトボッククリに関する学術的研究がなされ始めた。

続いて清教徒革命が起こったイギリスでも始められた。このころから力学・物理学・化学の分野におけるマトボッククリ研究が盛んに行われるようになった。これはマトボッククリについて演繹的な追求を行うことは不可能であり[2]、対してイギリスにおいて経験論が主流で、一定の経験則から妥協を図り、法則ではなくあくまで傾向として現象を明らかにしようとすることに抵抗が無かったことも大きく影響しており、フランスでもイギリスに対抗して研究はされていたが、何一つ進展していなかった。

19世紀になると、これら一連の研究は大きな成果をあげ、また新たな側面も明らかになった。それは戦場において、その場に持ち込まれたマトボッククリの数・大きさ・等級の力関係や組み合わせによって、その場にいる兵士や武器に様々な効果がもたらされ、戦況を担う重要な役割を担っていたということだ。その効果とは射撃の精度の向上から瀕死の兵士の息を吹き返すことまで様々であるとされた。

軍事への利用[編集]

先述の現象が明らかになると、早速マトボッククリはアメリカ南北戦争で軍事用途に使われることとなった。この頃からマトボッククリを利用して軍の調整を行う者をデプロイヤと呼ぶようになった。

軍事利用創世記における代表的なデプロイヤ
ロバート・リー(南北戦争時の南軍)
ユリシーズ・グラント(南北戦争時の北軍)
フローレンス・ナイチンゲール

その後もデプロイヤたちによる戦術は次第に発達・高度化し、同時期行われた探索収集機の劇的な改善も相まって、戦場には大量のマトボッククリを支給することが常となっていった。

20世紀以後[編集]

存在の否定[編集]

第一次世界大戦後、アメリカの数学界ではカオス理論の概念を利用してマトボッククリの影響を調べる研究が行われ始めた。

成果は第二次世界大戦中初期に現れた。しかしこれはこれまでのマトボッククリに対する認識を覆す衝撃的なものであった。それは、度を超えたマトボッククリの保持や利用が複雑系に影響を与えて以下に示すような弊害が起こるということである。

  • 関わる者に重い精神病を患わせ、極めて暴力的にさせる。最終的には自殺への引き金となる。
  • 集団が共同で保有している場合、使用の度合いに応じて集団は冷静な判断力を失ない、結果政策決定において大きなミスを犯す。

この事態を重く見た連邦政府は、連合国のメンバーにのみこの事実を伝え、マトボッククリの処分が一斉に始まった。

一方、この事態を知らない枢軸国ではマトボッククリの利用は最高潮を迎えた。これこそが枢軸国による蛮行、例えば個人的なレベルでは百人斬り、集団的なレベルではホロコースト南京大虐殺を招いたとされ、第二次世界大戦後はこれら各国での進駐軍により一つ残らず処分された。さらに国際連合の安全保障理事会ではマトボッククリを故意に保有している国家に対して軍事制裁を行う決議を採択。新たに独立した国々でもこれを恐れてくまなく処分された。こうして旧マトボッククリの存在は絶えた。

日本での歴史[編集]

日本では縄文時代の遺跡からマトボッククリの痕跡が出土したり、平安時代の仏像をX線撮影した結果マトボッククリと思われる仏舎利が発見されたことから、古来より信仰の対象とされてきたと思われる。しかしマトボッククリという記述は当時の文献には一切無く、マトボッククリそのものを鑑賞する習慣はなかったようである。

ユーラシア大陸式の鑑賞法が伝わったのは戦国時代、種子島へ漂着したポルトガル人によるものである。このころからポルトガル語が訛ったマトボッククリの名称が使われ始めた。ただ人力で探すのはやはり困難であるので当初は戦国大名の間ですら一般化されなかった。

その後来航したルイス・フロイスを始めとするイエズス会員が実物の機械を持ち込み日本で探すようになり、各地の戦国大名も次第に関心を持ち始めた。これに目をつけた足利義昭借金徳政令をしてまで機械を購入、見事マトボッククリを発見することに成功するが、すぐに織田信長に奪われてしまい、室町幕府は滅亡する。

その後時の権力者らによってマトボッククリ探しはエスカレートした。豊臣秀吉は太閤検地・刀狩の実施と共にマトボッククリ探索をするよう大名家臣に義務付けた。また、徳川家康による埋蔵金の正体は大量のマトボッククリであると口承で伝えられている地域があることが後に柳田國男によって確認されている。

江戸時代に入るとキリスト教弾圧と共にマトボッククリ探しは下火になった。幕府によって徳川家を除く一族を対象にした没収が度々実施されたが、一部では隠し通されたようである。マトボッククリ収集が再燃するのは明治時代になってからで、ヨーロッパのこの慣習が文明開化と共に再び明るみに出たをきっかけとする。政府皇室はもとより華族や軍部、財閥、成金などに流行は広がった。この時期、岩崎弥太郎は長崎のイギリス人商人グラバーより極秘に持ち込まれた旧マトボッククリを海援隊を通じて入手していた。最近の研究では坂本龍馬暗殺はこのことに絡んでいることが分かってきた。

また同時に先述の軍事利用の用途があることも伝えられ、政府ではマトボッククリの活用を富国強兵に並ぶ近代化の目標として設定した。デプロイヤの育成と戦術の研究が急ピッチで進められ、日露戦争の頃には日本のデプロイヤは国際的に認められる水準に達していた。代表的なデプロイヤとしては、日本海海戦東郷平八郎を支えた秋山真之が挙げられる。

また、探索採集機の国産化にも成功し、豊田自動織機や島津製作所によって量産。改良も進み、日本は世界有数のマトボッククリ採集量を誇った。

大東亜戦争時には、日本は当時の枢軸国の水準から見てもありえない程莫大な量のマトボッククリを戦場に投入したが、これが先述の蛮行やひいては玉砕・特攻隊による突撃の原因となり、戦後、全国にあるありとあらゆるマトボッククリがGHQに没収・処分された。

新マトボッククリの誕生[編集]

戦後、旧マトボッククリの存在はほぼ抹消させられ、関わること一切がタブーとされたが、それでも政府の目をかいくぐって民間の研究者による研究は細々と続けられた。

ドクター中松もマトボッククリを対象の一つとしていた開発者であった。1971年の独立後、ライフワークとしていたのが悪影響の無いマトボッククリの創出であった。彼は等級・つまり表面の傷のパターンがマトボッククリの働きに大きな変化をもたらすことに着目し、これをある一定のパターンにすることで無害なものにできるのではと考え、試行錯誤を続けた。その努力が実を結び1980年には見事無害化する傷のパターンを発見した。

熱心な働きかけの結果、かつて探索採集機を製造していた島津製作所が、無害化するパターンの傷をつける探索採集機の試作品制作を快諾した。これは島津製作所創業者が島津姓と家紋を薩摩藩主島津家から貰った際、同時に戦国時代から伝わるマトボッククリの一つも貰い、密かに家宝としていたことも少なからず影響しているとされる。

試作品は1983年に無事完成したが、当時は各国政府や市民団体、国際機関等々による圧力がかかり、製品化の中止も一時は検討された。しかしひそかに収集の復活を待ち望んでいた世界中のエクゼクティブ達から寄付金が殺到し、支援工作すら行われた。こうして製品化は成功し、1985年に無事探索採集機が発売されることとなった。この製品は世界各国で発売され、大型探索採集機にしては異例の大ヒットを記録し、これによりマトボッククリ採集熱は見事に戦前の水準に回復した。

ちなみに、マトボッククリの起源は日本にあるとされることが多いが、これは旧マトボッククリを無かったことにして新マトボッククリの起源について述べられている場合が多い。

資源の枯渇[編集]

しかしこうした明るい話題も長くは続かなかった。1990年、5年もたたないうちに地球上のマトボッククリの資源が無くなってしまうとの報告が環境庁(当時)によってなされた。この事実は世界中に衝撃を与え、マトボッククリの価格は高騰。このことが皮肉にもマトボッククリを再び格調高い趣味にする要因にもなった。2001年には国際連合によりマトボッククリの採集資源が無くなったことが宣言された。

脚注[編集]

  1. ^ 安禄山が安史の乱で玄宗より奪ったが一族失脚後、娘が故郷にうち捨てたマトボッククリを再発見したものとされる。
  2. ^ 現在では後述するカオス理論による演繹的分析が論理的には可能とされているが、これを実現する処理能力を持ったコンピュータは現在でも存在しない。

外部リンク[編集]