信濃 (空母)

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信濃(しなの)は、大日本帝国海軍が短期間で竣工させた超巨大航空母艦赤城・加賀に続く魔改造兵器と呼ばれており連合軍からも恐れられた。ちなみに、竣工時期が遅かったので最も猛威を振るったのは戦後だったりする。名前の由来は旧国名の信濃から。信濃川じゃないぞ。某宗教団体の本部がある街の名前でもない。

概要[編集]

日本海軍の航空母艦。大和型戦艦をベースに作られた。当初、大和型戦艦を11隻建造する計画があったらしく呉や長崎の海軍工廠はフル稼働していた。しかし、太平洋戦争が徐々に飛行機の重要性を示す戦いが頻発したためやむを得ずこの信濃のみが航空母艦として改造されることが決定された。

諸元[編集]

構造[編集]

急拵えで戦艦用の船体を使って建造された航空母艦なので内部には3連装主砲がそのまんま残されている。ちなみに使用できた。改装空母なので格納庫が1段しかなく、艦載機数は40機ほどだった。また、艦橋は独特の平坦型を採用しており今までの空母特有のバランスの偏りを無くしている。捕獲したアメリカ海軍の空母から割り出した左右の空洞もありまれにありがちな有毒ガスが漏れると言うこともない。

武装[編集]

戦局は急展開を迎えてるため新規で作る余裕が無く既に完成していた艦船からの流用がほとんど。唯一積まれていた通信機のみが独自設計されたらしい。主な装備は前述の3連装主砲3基と大和からの流用である高角砲16基(片側8基)・重巡洋艦「高雄」からシールド付き3連装対空砲20基(片側10基)・武蔵や瑞鶴に装備されていた噴射進撃砲(略して噴進砲)を30基(片側15基)であった。その外観は軍艦行進曲の歌詞にもある「浮かべる城」という名が相応しかった。ヴォルテックスグラインダーを艦橋に装備しておりかなり強固だったという。

防御力[編集]

巨体に相応しい防御力を追求した末、側面590㎜・甲板1200㎜・艦橋司令塔970㎜・格納庫1450㎜・エレベーター5400㎜と極めて分厚く連合国の艦載機も沈めることに困難を要した。ちなみに日本側でも耐久実験をしたところ500kg爆弾の炸裂にも耐えられることが分かった。ちなみに潜水艦の魚雷攻撃にも耐えられるようになっておりあまりの不沈ぶりから日本側は「自沈することが出来ないから終わりの時は陸揚げしよう」と騒ぐ者も多かった。

復元性[編集]

船体が大和型戦艦そのものであるため極めて高い。例えば、魚雷が仮に10発以上船底に当たるとしよう。その衝撃で出来た亀裂から浸水が始まったとすればその部分のみ防水壁を閉じ反対側に注水することで安定することが出来るのだ。また、連合国はまさか大和の船体を使ってるとは思っていないので沈まない巨体に発狂して海に落ちた飛行士も多く日本側もこの復元力の高さには目を疑った。

搭載力[編集]

常用機40機に含め補助機を13機搭載することが出来た。しかし、補助機常用機の3分の1ほどあり、格納庫に搭載できないので陸上基地に配備される。(帝国海軍が考えたシステムです。)当初は130機の搭載を計画していたが戦艦の上に飛行甲板という無理な構造になったため40機になってしまった。ちなみに熟練搭乗員の配備に苦労したため当時の乗組員曰く「格納庫は人数分ありましたが随分とガラガラしていました。」とコメントしてるのが戦局の混迷を思わせる。

実戦投入での成果[編集]

第30回アメリカ本土空襲[編集]

信濃の初陣は1943年の第30回アメリカ本土空襲であった。この時、日本はアメリカが1942年に実行したドーリットル空襲のように戦略爆撃機を空母から飛ばすことを構想していた。その為、信濃はわざわざ航続距離の長い富嶽を20機ほど搭載しカリフォルニア沖に到達。そこから発艦させた。ちなみにこの作戦には瑞鶴や鳳翔も参加しており非常に賑やかであった。

B29撃墜作戦[編集]

1944年から盛んに行われるアメリカ軍による本土空襲に対抗すべく信濃が投入された。信濃の対空砲は極めて精密であるため飛来するB29のほとんどを撃墜した。しかし、日を重ねる度に信濃も損傷箇所が多くなり沈没こそしなかったものの被害は参加した利根や酒匂・雪風など以上にひどかった。

九州沖航空戦[編集]

1945年、信濃は陸上攻撃機「銀河」を15機搭載し九州沖に出現したエンタープライズを筆頭とするアメリカ海軍の機動部隊を殲滅すべく投入された。当初、大本営は工場が集中する九州地方が狙われるという予想が立てられており瞬く間に信濃は多数の攻撃機を発艦。本土からの防空戦闘機も参戦しアメリカ海軍は深刻な被害を受けた。

ペナン沖海戦[編集]

同年、ペナン島を砲撃しようとするイギリス海軍に対する作戦。相手が駆逐艦のみだったため信濃は単独で突入。搭載されていた主砲で4隻を撃沈した。しかし、日本側も重巡洋艦「羽黒」が沈没したことやイギリス海軍の大挙もあって羽黒の負傷者を回収した後撤収した。

戦後の様子[編集]

戦後、信濃は葛城とともに引き揚げ船として世界各地を回った。その後、慰問団を乗せ終戦後間もないドイツの国民をいやす役割を果たした。その一方、フランスはその強靱な船体に目を付け1956年に没収。1960年までフランス海軍の砲艦として東西冷戦に巻き込まれることを想定して配備されたが巻き込まれなかったためアメリカ海軍に徴収された。当時、第二次大戦で戦勝国だったアメリカは中東戦争などで艦船を消耗しておりこのような航空母艦は打って付けであった。早速艦載機を山積みして中東に派遣され中東の制空権の奪還に一役買った。その後、ベトナム戦争にも戦局の急転を狙って派遣されたがこの戦争は地上戦が主体であったためB-52の離着陸には役立ったものの引き揚げ船としての活躍が多かった。その後、1994年にモスボールが決定しシアトルに置かれていた。20XX年、戦艦「大和」「武藏」と共に改修を受け、対空誘導弾搭載護衛艦(イージス艦)「やまと」型三番艦「しなの」として、「やまと」「むさし」と共に海上自衛隊にて就航中である。

こぼれ話[編集]

太平洋戦争のためにわざわざ戦艦から建造されながらあまり主要の戦闘に投入されず戦後にやっと実働した信濃であるが早くも進水式の地点でその兆候が見られていた。まず、相次いで進水予定日が延長され結局予定より2週間遅く実行された。また、進水式の当日も短縮工事が相まって古くなっていた固定用のロープが切れてしまい斜めに傾いた状態で進水する羽目になり専用のワインボトルもちゃんと割れなかった。それを見た関係者等は「不吉な暗示だ。」と口々に言っていた。

関連項目[編集]

Wikipedia
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