刎頸の交わり

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刎頸の交わり(ふんけいのまじわり)とは、生首が飛び交うような人間関係を指す言葉である。

語義[編集]

「刎」は首をはねること、「頸」は首の意。

前史[編集]

紀元前3世紀後半、始皇帝が世を治めていた頃の中国に、陳余張耳という二人の男がいた。彼らはいずれも賢人として評判高く、また志を一つにして常に寝食を共にしたので、かつてのの名臣である廉頗藺相如にも喩えられたという。[1]ともに秦に仕えることを良しとせず、門番などの職を転々としながら食いつないでいたが、そうこうしているうちに時代は移り変わり、始皇帝は沙丘で死に、間もなく陳勝呉広が蜂起して中国は戦乱の世となった。

この情勢を奇貨としたふたりはさっそく陳勝のところに行き献策をしたものの、採用されることなく武臣将軍の副官にまわされ、北方の趙の攻略に従軍することとなった。なお、史記はこの趙攻略の場面で、ほぼ唯一と言っていい彼らの賢人らしい見せ場を描いているが、実際のところ明らかに彼らよりも蒯通や無名の兵士の弁舌のほうが際立っており、彼らがしたことといえば武臣に付き従って陳勝の武力を背景に降伏勧告をして回っただけである。[2] ともあれ、こうして趙の攻略に成功した武臣たちだったが、このころ肝心の陳勝の勢力が伸び悩んでおり、しだいに見通しが暗くなってきた。ここでふたりは陳勝が自分たちの献策を無視したことや、自分たちを将軍にしないで武臣の副官に付けた恨み[3]を思い出し、占領地の趙で上司の武臣に王として即位することを勧め、自立する姿勢を見せた。その後、武臣は戦死したが、すると彼らは昔の趙王の子孫を探し出して王位に据え、自分たちはその家臣に収まってしまった。なお史記では、このあたりの場面で名もない兵士が「武臣・張耳・陳余はそれぞれが王になる野心を持っている」と発言する一幕がある。フラグのような気がしないでもない。

亀裂[編集]

さて、これで二人の地位は安泰かと思われたが、激動の時代のこと、当然そうはならなかった。この間、陳勝が部下に殺されて滅亡しており、それによって勢いづいた章邯王離率いる秦軍が、大軍を擁して趙になだれ込んできたのである。このとき、張耳は鉅鹿城に逃げ込み、一方の陳余は軍を率いて城の郊外に陣取っていた。鉅鹿を秦軍に包囲された張耳は陳余に救援を求めたが、陳余は兵数の不利を理由に動こうとせず、ここにきて張耳は激しく陳余を恨んだ。結局、鉅鹿城は項羽の手で解放されたものの、張耳の怒りは収まらず、それを知った陳余は張耳に将軍の印綬を渡し、暗に私心が無いことを示そうとした。ところが張耳が空気を読まずに印綬を受け取ってしまったことから、陳余もまた張耳を恨んだ。こうしてふたりは決裂し、友情はそのまま怨恨へと反転して、以後、彼らは互いに干戈を交える関係になってしまった。

刎頸[編集]

陳余の張耳への怒りが爆発したのが、項羽による十八王封建のときである。項羽・劉邦らによって秦王朝が滅ぼされたあと、項羽は論功行賞を行い、これにともなって張耳は趙の常山王に封建されたが、陳余のほうはわずかに3つの県の侯になっただけだった。張耳が自分より出世したことを妬んだ陳余[4]は、田栄をそそのかしてその兵を借り受け、その力でもって張耳を急襲、たちまち壊走させ、張耳一族の多数のをもぎ取るに至った。張耳は命からがら劉邦のもとに逃げ込んだ。張耳を放逐した陳余は再び趙王を擁立し、自分はその宰相役となった。ちょうどその頃、劉邦は項羽を討つため諸侯に援軍を求めていたが、趙にも兵を借りたいと思い、陳余に使いを出した。これに対して陳余は言った。

援軍が欲しかったら、張耳のを持ってこい。


しかし、劉邦は匿っている張耳を殺すわけにもいかず、顔の似た別人の首を送りつけて誤魔化すほかなかった。憎い張耳のを見て快哉を叫んだ陳余だったが、劉邦が項羽に叩き潰された後になって、その首は赤の他人のものであることが判明。張耳のが欲しくてたまらなかった陳余は当然ながら激怒し、劉邦の約束違反をなじって離脱した。しかし、これによって陳余は劉邦と敵対関係となる。やがて張耳が劉邦配下の韓信と共に趙に攻め込んできたが、陳余は李左車の献策を無視[5]して韓信を見くびった挙げ句、井陘の戦いで大敗を喫し、ついにそのを削ぎ落とされてしまうのだった。

こうして、陳余と張耳の刈り合戦は張耳の勝利に終わった。彼らふたりの関係は世の人から刎頸の交わりと呼ばれ、二千年後の現代に至るまで記憶され続けている。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ しかし彼らが智謀を発揮している場面というのは何故かほとんど記録に残っていない上、この記事を最後まで読めばわかる通り人格面でも本当に賢人と呼ぶに足る人物なのかは疑わしい。
  2. ^ 彼らと違って本当に弁舌で国土を守ったのが藺相如である。
  3. ^ 当たり前だがいきなり出てきた指揮経験どころか従軍経験すらない人間が将軍に任命されて当然といったことは、いくら戦国乱世でもありえない。
  4. ^ 彼と違って藺相如の出世を妬んだことを恥じたのが廉頗である。
  5. ^ なお、李左車は自分の策が受け入れられないからといって恨み言を言ったり、裏切ったりはしていない。