存在
あなたの存在自体が邪魔なのよ!
〜 あなた について、どこかのネット小説
存在(そんざい)とは、妄想力に定評のある人類が考案した架空の概念。人やモノなど何らかの対象が「ある」ということを意味するが、存在という概念そのものは、人間の妄想の産物なので、元来存在しないことになる。これを解釈、究明しようとする者は、複雑に構築されたパズルを解き明かすかの如く莫大な徒労を費やし、時には嘔吐や倦怠感を催す。数多くの変人、哲学者によって存在の証明がなされてきたが、いまだに存在とは何なのか、明確に解き明かした人間はいない。人間が生み出した概念であるにも拘らず、である。自分で広げた風呂敷すらたためないようでは、人間の可能性など、たかが知れているといえよう。
ちなみに、日本人はこの概念に対して「存」「在」という、ともに「ある」という意味を持つ単語で言葉を構築している。重複表現を用いて強調するほど存在することに自信が持てない、付和雷同の傾向がある日本人のチキン的気質が、端的に、かつ、如実に反映されていると言えるだろう。最早愚昧を通り越して滑稽の領域に達している。また、似たような漢字2字を使用している為、たまに「在存」と「存在」どちらが正しいか分からなくなる。
対義語は、サルトルが頑迷にも「虚無」「無」であるとしつこく主張していたが、サルトルの主張を支持したのは、彼に洗脳されたごく僅かな少数派のみであった(って外山恒一が言ってた)。本当の対義語は「誰も気にしない」である。何故なら、存在とはあくまで人間が勝手に妄想し、認識している概念に過ぎないから、主体である人間が気にしなくなれば、存在という漠然たる概念そのものが消滅するからである。
また存在感という語もあるように、何かの存在はそれを認識する者の感覚によってあったり、ないことにされたりする。 このような文脈で存在という語が使用される場合には、他者からどのように思われているか?という中二病的自意識と結びつくことが多い。
存在を認識する基準[編集]
そこに任意のモノが存在することを認識できる判断基準は、人によって差異がある。例えば、人間の女性が肉眼で見られる距離にいた場合、それだけで「人間の女性が存在する」と存在を認識できる人もいるし、その女性のおっぱいやケツを揉むなどしてセクハラ行為…いやスキンシップに及び、肉体的な感触を得ることで、人間の女性が存在することを認識する人もいる。その女性を押し倒し、検閲により削除にナウい息子をぶち込んで、締り具合を堪能し、そこまでやって初めて人間の女性が存在することを認識する疑り深い人間もいる。 そして闇に落ちた者は便所で頭を抱えながら大便をするであろう。
存在不要論[編集]
存在は、ある人とない人がいる。そして、これはない人のほうが圧倒的に有利である。なぜなら、存在がある人はいろいろと文句を言われたり付けまとわれたりするが、ない人はその場を空気のようにすり抜けられるし、存在している女性は、女性の存在を認識する野郎共に強姦されることを常に危惧していなければならないが、存在しない女性は野郎共から認識されないので、強姦される心配を全くしなくて良い。そもそも存在というものは、「僕はここにいる」ということを示すようなものであるから、失敗をしたときやその場を去りたいとき、他人の家に泥棒に入りたい時、気付かれずに任意の人間を殺したい時、反撃されない位置から不意打ちや罵詈雑言を浴びせたい時などには邪魔なだけである。
ただ、存在を持つことで有利なことも極わずかにある。それは、オーラのようなもので、恋人を惹きつけるときとか、空気を読まずに己の道を突き進みたいときとか、目立ちたいときに有効である。しかし、存在感が濃すぎると結局ドン引きされて逃げられたり、通報されたり、存在感の濃さを妬まれ揚げ足を取られたり陥れられたりいじめや集団リンチの対象にされたりするだけなので、やはり、「存在は邪魔なだけ」ということになる。こんな罪深い概念を作った奴、何処の哲学者か知らないが、地獄で永遠の責め苦を負うべきだろう。
存在を消してしまいたくなるとき[編集]
上述のように、存在は邪魔なだけである。だから、存在を消してしまいたくなるときもまた存在するのだ。以下は、その一部と、それを解決するためにあらゆる人がとった方法である。
- 皆の前で先生に怒られて教室の空気がしーんとなっている瞬間、オナラをしてしまったとき。
- タイミングを見計らって一発芸披露。
- 前を歩いている人に後ろから「よっ、色男♪」と声をかけたら、上司だったとき。
- せんぱぁ〜い、ご結婚おめでとうございまぁす♪
- 悪口を言いたい放題言いまくっていたら、まさかのご本人が登場したとき。
- ……お前のこと言ってるんじゃないから。
- 男湯だと思って入ったら女湯だったとき。女湯だと思って入ったら男湯だったとき。
- 全てを捨ててヘンタイに走る。
- 駅のホームにて、新幹線の風でかつらが飛ばされたとき。
- 友達同士で集まって卒業アルバムを見ていたら、中二のころ書いた詩集が見つかったとき。
- いやあ、やっぱ卒業アルバムっていいよね。ちょっとお茶淹れてくるわ。
- 好きな人に電話で「アイ・ラブ・ユー」と言ったら、相手はお母さんだったとき。
しかし、その場をごまかすことはできても、存在を消すことなんてできない。なぜなら、「存在を消したくなるとき」そのものが存在しているからである。
存在を持った人はどうなってしまうのか[編集]
以下は、中二のころにしか体験できない貴重な体験である。
俺、クラスで一人だけ独りぼっちだよな…… 頭も悪いし、運動苦手だし、モテないし、ケンカ弱いし、ヘタレだし あーもうやだよ。こんな人生。やってらんね。俺って存在するのかな? 存在ってなに? 存在さえあれば俺は俺のままでいられるんじゃないの? 今まで存在がなかったから誰にも相手にされなかったんだ…… その日から、俺は存在を探し求めることにした 便所飯もやめた。教室で一人食うことにした。それじゃ皆教室で食べるようになった。 放課後一人で帰るのやめた。不良と絡むことにした。仲間が増えた。 これが本当の自分ってやつ? それから俺は悪の道へと走ることになった バイクで光と闇の狭間を駆け抜け 仲間とタバコをふかす あーこれが存在ってやつか そして俺は存在を操り、無敵になった この町では最強、万引きは最高 そして今日、逮捕された 存在ってこんなちっぽけなものだったんだ……
彼も、よくもこんな厨な文を書けるものである。これも存在があるからである。
存在の真実[編集]
「存在って何なの?」とは、誰もが、特に中二のときに抱く疑問である。例えば、あなたが誰かに声をかけられたり、褒められたり、愛されたりするのも存在があるからである。もちろん、誰かに怒られたり、パイを投げられたり、釘バットで殴られたり、ときには売り飛ばされたりもするかもしれない。それもあなた自身の存在があるからである。
しかし、存在が何かなんて知らなくてもいい。全てがなくなってしまわない限り、存在はいつまでも存在するのだから。