徳川家継
徳川 家継(とくがわ いえつぐ)は江戸幕府7代将軍。僅か5歳で将軍になり、そして僅か8歳で死去してしまった薄幸将軍である。 なお室町幕府七代将軍の足利義勝も9歳で将軍になって、10歳で死去した薄幸将軍であった。
生涯[編集]
4歳の幼稚園児の時に、父家宣が死去。家宣は家継がまだ幼すぎるため尾張徳川家の徳川吉通を後継者にとの遺言を残したがこれに対し新井白石は「嫡流の鍋松(家継の幼名)様こそが徳川将軍家を正当に継がれるお方、亜流である尾張家の吉通様が継がれてはそれこそ徳川将軍家が終わりになってしまう。」と反対した。このあまりにも寒いギャグは家宣の寿命を縮めてしまいまもなく家宣は死去した。
しかし白石と間部詮房としては、幼児の鍋松が将軍になってくれたほうが自分らの思うがままに幕府を動かせるので、鍋松を7代将軍にしようと考えた。しかし、ここで問題が発生する。父家宣は鍋松がすぐ将軍になると想定してなかったので、鍋松を元服させていなかったのである。元服しないと官位は、朝廷から任命されないという慣例があった。しかし次期将軍たる鍋松に大人としての名前をつけるにしても、誰が名付け親になるのかという問題があった。4歳の鍋松が自分で名前をつけるわけにはいかないし、家臣たちが名づけることは恐れ多くできなかった。そこで幕府は、京都の朝廷に次期将軍の名付け親になってほしいと江戸時代で唯一のお願いを行った。朝廷は了承したが、天皇もまだ幼かったので霊元上皇が名付け親となり、「家継」の名前を与え、同時に権大納言の官位も与えた。そして翌年、家継が5歳の時に正式に、史上最年少の征夷大将軍となった。その後家継は詮房や白石らに厳しく育てられながらすくすくと成長し、霊元法皇の娘の吉子内親王(まだ1歳の赤ん坊)と結婚することも決まって結納も済ませたが、急に病をこじらせ僅か8歳で死去してしまった。そのため吉子内親王は、1歳で後家になってしまった。徳川の「家を継ぐ」存在である家継が、名前とは逆に跡継ぎも残さずに死去してしまったため、いったいこれからどーすんのな空気が流れ、やがて白石と詮房のスパルタ教育が家継の身体に負担をかけていたのではないかと言う悪説が漂い始め、白石と詮房の立場は一気に悪くなった。そして8代将軍に暴れん坊将軍こと徳川吉宗がなると白石と詮房は落ち目になったタレントの如く失脚した。
死後の家継[編集]
死後、家継はその前途有望ながら夭折した薄幸さをレナス・ヴァルキュリアに気にいられエインフェリアとしてヴァルハラに召喚され聖剣を片手にヴァン神族との戦いで活躍している。なお目撃者の話によるとショタキャラではなく青年の姿であったとのことである。
先代 徳川家宣 |
江戸幕府将軍 - |
次代 徳川吉宗 |
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間に合った!このまま「徳川家継」を加筆しなかったら、 どうしようもない記事のまま歴史に残っちまうからな! (Portal:スタブ) |