徳川家茂
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徳川 家茂(とくがわ いえもち)は、徳川王朝の第14代将軍。通称甘党将軍。
概要[編集]
一橋家の徳川慶喜と家督の座を巡るクッキー早食い合戦に勝利して14代将軍となった。文武両道の聡明な将軍であったが大の甘党であり殆どの歯が虫歯であった。
元治元年(1864年)の第一次長州征伐の折、長州は恭順の証として、禁門の変の責任者である3人の家老の首を、幕府に差し出した。しかしそれは、スポンジケーキと生クリーム、髪はチョコレートで巧みに作られた、お菓子の首であった。
家茂は、何よりの恭順の証であると悟り、長州を許すように幕閣に命令し、3つの首ケーキを持っていそいそと奥に引っ込んでしまった。だが、首ケーキをその日のうちに全部食べてしまったために、家茂の虫歯は急激に悪化した。虫歯は長州のせいだとキーボードクラッシャーばりに逆ギレした家茂は、再び長州攻撃を決断(第二次長州征伐)。しかし坂本龍馬の仲介で、征長に参加しない盟約を結んでいた薩摩は、その代償として、琉球砂糖たっぷりのスィートポテト5石を家茂に献上した。
慶応2年(1866年)、老中が無理矢理に縛り付けて西洋医師の歯科治療を受けさせた。その歯科医があまりにポマード臭かったので顔を背けたため、ドリルで口の端が裂けてしまい、頓死した。老中たちはこの事故を隠蔽し、家茂は「急病で死去」したと公表した。 あまりにも急な「病死」だったために、篤姫に毒殺された、もしくは慶喜に毒殺されたと推測する歴史家もいるが、事実は上の通りである。
家茂甘党伝説[編集]
- 歯医者に対して異常なまでの恐怖心を抱いており、ドリルのキュイーンと言う音を聞いただけで錯乱してしまう。
- 愛読書はヘンゼルとグレーテルであり妻和宮に対しいつか江戸城をお菓子の城にすると語っていた。
- 玉川上水をイチゴミルクが流れるようにする計画を立てていた。
- 1日3回の食事にアイスクリーム天ぷらを出させた。
- 祝い事用の鯛の代わりにビックサイズの鯛焼きを出させた。
- クレムリン大宮殿はお菓子の城だと勘違いしていた。
- いずれは日本の土地の大半をサトウキビ畑にして国内で大量に砂糖をまかなおうと構想した。もちろん年貢は米でなく砂糖で納めさせようと構想していた。
- 孝明天皇にお歳暮として千歳飴とカリントウ1年分を送った。
- 池田屋事変の恩賞として新撰組にカステラを下賜。その際近藤勇がバナナカステラではないと逆ギレしたためバナナカステラに砂糖12tをのせて送りつけた。
- 土佐勤王党の残党が家茂行きつけのぜんざい屋を占拠したため、連中を新撰組に排除させる。
- 倒幕派対策として、メントス爆弾の兵器としての実用化を推進した。
- 味噌汁に砂糖大さじ3杯以上。
- 家茂が食べていたカレーライスは蜂蜜とハーゲンダッツを混ぜた超甘口。
- コーヒーに角砂糖12個。
- コンデンスミルク入りの抹茶に蜂蜜15杯。
- ざるそばの汁にマックシェイク。
- オムライスに苺ジャムを大量に乗せる。
- ラーメンにレディーボーデン(カップ大)を全量トッピング。
- 朝のトーストにクーリッシュを乗っける。さらに板チョコ数枚をトッピング。
- ピザのトッピングはチョコレートやキャラメルやハイチュウやペロキャンにバナナ数本に缶詰の桃。焼きあがったビザの上にさらにアイスクリームを乗っけてコンデンスミルクとピーナッツクリームとメイプルシロップとチョコクリームをかけて食べる。
- お忍びで月島に出かけた時はチョコレート入りもんじゃ焼きをいつも注文していた。
- お忍びで忍(行田)に出かけたときにゼリーフライを食べたが、ゼリーの揚げ物だと思って注文したのに違ってたので激怒した。
- サラダに蜂蜜をかける。
- スイカに黒蜜をかける。
- メイプル丼も食べる。
- バケツプリンは当たり前、プリンでいっぱいのプールへ飛び込み完食。
- バケツいっぱいの氷砂糖と氷水を上からぶっかけ、これも完食。
- なおここまで読んで吐き気を催した君は正常な味覚の持ち主である。
先代 徳川家定 1853年-1858年 |
徳川幕府将軍 徳川家茂 1858年-1866年 |
次代 徳川慶喜 1867年-1868年 |
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この項目「徳川家茂」は、日本史に関連した企画書ですが放送日が迫っています。アンサイクロペディアではその時でないのに歴史が松平アナを動かす! (Portal:スタブ) |