水木しげる

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水木しげる(みずき-)(1945年-2015年)は、戦死した日本兵武良しげるがラバウルの精霊たちと合体した事で誕生した妖怪にして妖怪学研究の第一人者である。

概要[編集]

人間」武良しげるは鳥取県境港市のはずれ、三兄弟の次男として生まれた。イタズラしては近所ののんのんばあに叱責される日々を送っていたが、生来の怠け癖により学校や徴兵された軍では落ちこぼれ扱いされていた。後述する通り戦争末期に非業の死を遂げるも、現地の精霊と合体し復活。帰国後に水木しげるを名乗り紆余曲折あって漫画家となる。

水木は精霊たちが武良しげるの死体に乗り移った超生物であり、生前の「武良しげる」の記憶を一応有してはいるが、肉体は妖怪のそれであり、霊魂を目視したり霊と会話することができる。そのため結婚後は「半妖の子でも、せめて聖なる日に誕生日を上げさせてやりたい」と判断し二人の娘を正確にクリスマスに産まれるように仕込んだことで知られる。その特異体質及び、霊界・魔界との幅広い交流に伴い、妖怪学の研究に携わった。現在日本の妖怪文化は半ば水木によって作られたも同然であり、哲学におけるソクラテス天文学におけるコペルニクス、房中術における加藤鷹に並ぶ碩学と言える。

一人称は「俺」「僕」「私」など安定しないが(諸君らもそうであろう)、漫画家として自身の仕事を振り返る際には「水木さん」を使う。これは自身の人格が武良だけのものではなく、複数の精霊が同時に飛び込んだことにより形成された人格「水木しげる」を認識して差しているからである。

来歴[編集]

誕生[編集]

人間・武良しげるは、1945年に太平洋戦争のさなかにラバウル送りとなる。日本兵の多くが森を切り開き、ド人[1]を見下していたが、しげるは「このノンビリした土地はせせこましい日本よりオレに向いてる」とド人たちにも分け隔てなく接し、自然を愛していた。

白装束を着せられ安置される武良しげるの死体に合体する精霊たち。左腕はこの時すでにズタボロになっていた。

しかし戦争は日に日に激しくなり、やがてしげるはアメリカ軍の機銃掃射と爆撃を受け、三日三晩苦しんだ末に息絶えた。しかし、それを草葉の陰から見ていたラバウルの土地神妖精たちは、「我々の郷土に心を開こうとしたこの優しい青年が死ぬのは悲しい」と次々にしげるの死体に乗り移り、日本兵たちに土の中に埋められそうになっていたしげるは突如として復活。日本兵たちは驚きのあまりしげるを怪物呼ばわりしてを乱射したが、この時点では既に怪物、否妖怪として生まれ変わったためその認識は当たっていた。日本兵たちから追われる身となったしげるは「フハッ」と鼻息を挙げて逃走、うっかり左腕を土の中に置き忘れてしまうも「まあいっか」とそのまま山の中でサバイバル生活を続け、終戦が発表され次第船に密航し日本に戻って行った。

妖怪人生の始まり[編集]

かくして故郷に戻ったしげるは「もう軍人・武良しげるとしては死んだんだし、名前変えるか」と故郷境港の山水を見て「水木」しげるに改名、さりとて朝寝坊と大食いと絵しか取り柄がなかったため、傷痍軍人恩給を元手に神戸ボロアパート貸しを行う傍ら、印税生活を目指して(注:この時すでに23歳である)絵の勉強を重ねていた。しかし、ここで誤算が発生した。ラバウルの精霊たちと合体したゾンビ水木の霊感を察知し、アパートには妖怪半妖幽霊といった人外ばかりが押し寄せたのである。水木はそいつらに毎日話を聞くうち、自身が既に妖怪になっていることを知らされ、フハッと一声いななくや、「俺はもう何の仕事もできゃしねえじゃんか」と肩を落とし、朝は寝床でグーグーグー、昼はのんびりお散歩を繰り返す自暴自棄な生活を繰り返した。

すっかり落ち込んでしまった水木を見て、住人たちは「だったら水木さんは特異な絵の仕事をすりゃいいじゃないっすか」と唆し、物質文明の進歩に伴い居場所を失いつつある妖怪変化たちの窮状を訴えた。水木の頭には、ラバウルで暮らすド人たちの何もないけど空は青いといった自然と共生した生活が去来した。

「わかった。俺が絵の力で、君らを人間たちに知らしめてやろう」

こうして水木は残された右腕で妖怪たちを毎日模写しては必死に取材しメモを書き記した。こうして水木は、類まれなる妖怪知識を得た。そんなある日、近所でアメを売っているおっさんから「戦前やっていた紙芝居も、空襲のおかげで焼けて殆ど残っていない」と聞いた水木は「だったら妖怪の話はどうでしょう」と打診し、紙芝居製作に取り組んだ。結果、子供たちにウケはしたものの、所詮はアメ屋である。いくら書いても何の腹の足しにもならず、しまいにはアメ屋のおっさんからも現金収入ではなくアメで報酬が届くようになってしまい、妖怪たちと一緒に泣きながら水木はアメを嘗めるのだった。

貸本漫画家への道[編集]

しかし世の中何が転ぶかわからないもので、偶然紙芝居を見た編集者が水木のもとを訪れ、「おたくの絵は大変うまい! 貸本漫画をお描きになられてはいかがか」と打診してきた。水木は「漫画なんて俺学生の時しか書いてねえよ」とぶつくさ言いつつも、編集者が持ってきた漫画をパラ読みし始める。するとその中の一冊を読んで、水木は「フハッ」と一息ハナから噴き出すやひっくり返った。その漫画こそ、酒井七馬原作手塚治虫新宝島』であった。映画的手法を取り入れ、ストーリーも練りに練られたこの作品は、のちの藤子不二雄石ノ森章太郎赤塚不二夫ちばてつや(おい! ほとんど赤リンクじゃねえか!)といった漫画史を築く少年たちを作り上げたとされる世紀の一作であった。

水木は自分より6歳下の天才が記したこの一作をすぐさま妖怪たちにも見て回らせ、無い腰を抜かさせた。彼らが「これはすげえ」「絵が動いている」「妖怪の仕業じゃ!!」と口々に語る中、水木は再びフハッと鼻息を荒くし「決めたぞ、俺は紙芝居作家やめて貸本漫画家になる」と宣言した。

当初こそ水木は編集者が差し入れてきた指令と資料を基にパクリ漫画の執筆で糊口をしのいでいたが、やがてそれにも行き詰まりアパートを売らざるを得なくなる。妖怪たちは結局ほとんど家賃も入れないまま「長屋の花見」状態での泣き別れとなり、彼らがに帰っていくのを見て水木はボソッと「見世物小屋に売っとけばよかった…」と呟いたが、覆水は盆に返らないのでそのまま上京、調布市に引っ越した。そこで水木は妖怪たちのスケッチをもとに、手塚漫画のようなアクセントを入れた怪奇漫画を描き始め、それがそこそこの人気を博す。のちにこれが「劇画」と称されるジャンルを形成し、手塚自身を追い詰めることになるのだが、当時の水木は知る由もなかった。

そんなこんなしているうちに気づけば水木も39歳(正確には16歳)、さすがに後がなくなってきたので実家の両親はお見合いを提唱する。

鬼太郎誕生[編集]

水木は故郷に帰り、見合い相手の飯塚布枝を見て「フハッ、その顔さては一反木綿!」と絶叫。当時、鹿児島県民以外で一反木綿を知っている人などいなかったのでこれと言ってリアクションされることもなく、よくよく見てみれば妖気もなかったため「人間か、まあいいや」と水木は結婚を内諾。AV並みの超スピード婚の果てに帰郷し、再び水木は怪奇漫画の執筆にとりかかった。

所帯を持ち「俺はこのままただ子供たちを怖がらせる漫画を描いているわけにもいかん」と思い直した水木は、妖怪たちのスケッチを眺めるにつけ三食アメで凌いでいた懐かしい日々を思い出す。

「アメ…そうだ! たしかアメが絡む幽霊の話があったぞ!」

フハッと鼻息一つ荒らげて、寄せ集めた資料をあさり始めた水木は、一つの文面に目を止める。それは「子育て幽霊」という江戸時代の説話であり、幼くして死んだ母親の霊が、赤ちゃんのためにアメを買って与えるという、今の育児放棄虐待だと言われて久しいバカ親に聞かせてやりたい泣ける話であった。それを読み返し感動した水木はさっそく、墓場で母親の死体から少年が生まれる話を書いた。水木は自身が一度墓場から蘇ったことを思い返し、その漫画に墓場鬼太郎の名を冠した。

『墓場鬼太郎』はニヒリズムな内容から貸本漫画読者にそれなりの人気を博し、あの手塚治虫をして「とんでもねえヤツがあらわれやがった」とまで言わしめたが、時代は既にテレビの普及、ならびに週刊少年誌の時代に移っていた。この手の記事では何度も書くことになるし正直諸君らも読みたくない文面ではあるだろうが、漫画は子供の娯楽という時代だったのだ。貸本漫画は次第に斜陽を迎え、水木の書いていたレーベルもドミノ倒しの様につぶれていった。

少年漫画への転身[編集]

そんな中である。1962年、日本のサブカルチャーに激震が走った。かつて水木をひっくり返らせた手塚治虫の最高傑作(当時)『鉄腕アトム』のTVアニメ放映が決定したのだ。「フハッ」と鼻を荒らげて驚いた水木は、翌年有り金はたいてテレビを購入。そこで映し出されるアトムの活躍を見て「ロボットがこんなにウケるとはなあ、妖怪の時代は終わったのかねえ…」とため息をついた。しかし、ここでふと水木は(当時1歳だった娘と鑑賞しつつ)「子供に受けるのはただ怖いだけの存在じゃなくて、『可愛いけどヒトとは違う存在』じゃないのか?」と思い始めた。子供漫画と自身の貸本漫画を読み比べ、水木は「水木さんの書く漫画のガキは全然可愛くねーな」とすっごい自虐的に悟り、かつてパクリ漫画で食い凌いできた経験を生かし、売れている漫画の研究に明け暮れた。

そんなわけで翌年、別冊少年マガジンの漫画賞に水木は『テレビくん』を投稿。この時すでに42歳(正確には20歳)であった。可愛げのあるキャラクターと、最後は普通の人と相いれなくなり消えていくバガボンドとしての悲しさを表現したこの漫画はアンケートで1位となり、水木は第6回講談社漫画賞を受賞。これには水木のみならず妻も「フハッ」と驚いた。

講談社『週刊少年マガジン』編集部は水木に連載を打診し、それを聞いた水木は現代文明から忘れ去られつつあった妖怪文化の啓蒙のために新作を提案する。それこそが、(ちょっとかわいくなって)復活を遂げた『墓場の鬼太郎』であった。鬼太郎はあくまで「今まで水木作品の中で一番売れた漫画」の主人公ではあるが、本作は水木が妖怪文化発掘のために書いたいわば妖怪図鑑のようなものであり、鬼太郎は毎回出てくる妖怪を紹介するコメンテーター(狂言回し)としての登場であった。最近の例で例えると、「ゆっくりで学ぶ○○○」みたいなノリである。この『墓場の鬼太郎』は子供たちにも受けが良かったものの、当時始まったウルトラQなどの第1次怪獣ブームにより「え? 妖怪漫画? これ怪獣ちゃうの!?」と間違った方向での人気を博した。「違うんだけどなー」と右手で頭を抱えつつも水木は執筆をつづけ、やっとこさトキワ荘組に並ぶヒットを手にしたのである。

妖怪文化の成立、そして旅立ち[編集]

老境に差し掛かった水木とかつてのライバルたちの一幕

かくして水木はポシャった悪魔くんやら河童の三平やらの雑誌連載も取り付け、アニメ化・実写ドラマ化も果たす大人気漫画家となる。それはすなわち、水木が妖怪アパートの仲間たちに誓った「妖怪の復権」に20年越しで成功したのである。雑誌では毎週のように妖怪特集が組まれ、あの手塚治虫をして鬼太郎と双璧を成す妖怪漫画『どろろ』の執筆に着手した始末であった。

本来は学術用語に過ぎなかった「妖怪」などの怪異は、水木により作画されることでその形を取り戻した。伝承とは伝え続けなければ色あせるものであり、何でもかんでも分からないことの原因を押し付けることで生まれた存在を、水木は零れ落ちる砂を掬うが如く掬い取って行った。かくして、物質文明化により滅びかけていた妖怪は現世にとどまることができるようになった。

水木の著作を読み、打算にしろ本心にしろ、妖怪を題材とした作品が数えきれないほど生み出され、それが新しい世代の子供たちや、日本文化を全く知らない外国の人々に伝わったのは、水木にとっては成功を超えた成就とも呼ぶべき結果となった。水木は自身の飯のタ…もといライフワークを作ってくれた妖怪たちに感謝し、その伝説を更に啓蒙すべくエッセイ執筆やテレビ出演や講演など様々な文化活動に勤しんだ。


こうして老境に差し掛かり、いかな妖怪とはいえ一度死んだ身、水木の体力も次第に衰え始めていた。そんな中、水木は見える妖怪の数が段々増えていることに気づく。「乱開発も収まってきたから妖怪も増えてきたのかねえ」と首をかしげる水木であったが、そこに現れたのはかつての妖怪アパートの連中であった。「おうどうした、最近景気がいいと聞いてるぞ(水木さんのおかげでな)」と鼻で笑った水木であったが、彼らはニコニコして「それがですね水木センセイ、我々の世界に遂にあいつが現れたんですよ」と応える。「あいつって誰だよ」と聞き返すと、妖怪たちは「わからんのですか? 鬼太郎ですよ」と答えた。「フハッ」と水木はでんぐり返り、「鬼太郎は水木さんの作った架空の妖怪だぞ」と釈明するも、「そんなん言ったら俺ら全員架空だわ」と彼らはゲッゲッゲッと笑い出した。

そう、水木の作り出した世界観は、既に一つの妖怪伝説を生んでいたのである。妖怪は人間の伝承に依拠する存在であり、語り継がれるうちに伝説となれば具現化しうるのである。誕生から50年経ち、鬼太郎は既に人々の共通の思念により「妖怪」として成立していたのだ。

だが鬼太郎はまだ生まれたばかりで、まだ霊界に溶け込んでいないという。それを聞いた水木は、妖怪どもの考えていることを察し、ハァとため息をついて答えた。


「わかったよ。水木さんが鬼太郎を立派な妖怪に導いてやるよ。それが創り出した使命だからな」


されどその声に、後悔も落胆も残ってはいなかった。



その後の水木しげるの行方はようとして知れないが、『ゲゲゲの鬼太郎』が2018年に再びアニメ化されるに至ったことからわかる通り、息子である鬼太郎と笑顔で楽しく暮らしていることだけは確かである。

「あなたが選ばれた理由は笑顔です。」
水木しげる について、妖怪

脚注[編集]

  1. ^ 差別用語であるが、水木曰く「その土地の人という意味でありむしろ尊敬している」と屁理屈主張しているのでこの名称をつけさせていただく。

関連項目[編集]

銅
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