高杉晋作
高杉 晋作(たかすぎ しんさく、 天保10年8月20日(1839年9月27日) - 慶応3年4月14日(1867年5月17日)) は、江戸時代末期(幕末)の魔王・武士・ネクロマンサー・三味線師である。幼少時は単なる病弱な人間であったが、後に平和を脅かす魔族を統べる存在まで成り上がった。軍学・兵学・魔法に長けており、その力を生かして自らが所属する長州藩を武力と魔力で掌握し、長州藩の独裁者として薩摩藩と薩長同盟を締結する。江戸幕府を滅亡させ日本の統一、および世界の征服に乗り出そうと目論んだ。
概要[編集]
江戸時代末期に長州藩を指揮、江戸幕府倒幕の功労者として知られており、奇兵隊と呼ばれる軍隊を組織したことで知られる幕末の志士である……と一般的には言われている。
だが実際には、古今東西あらゆる魔法を駆使し武力によって日本を統一しようと目論んだ神になろうとした男である。数多くの文献でこのことが書かれており、駐日イギリス公使のアーネスト・サトウは高杉のことを「魔王」と実際に評しているのである。このように地球の裏側まで高杉の名前が轟いているのは、高杉が覇道の道を歩む革命者だという証左である。
なお、この事実をウィキペディアに書き込むと「hydeの身長は156cm」の如く即座にリバート・即時削除されてしまうので注意されたい。
経歴[編集]
幼少時[編集]
高杉は1839年、長門国萩城下にて長州藩士の長男として生まれた。この頃は、後に日本国中を脅かすほどの魔力は全く感じられなかったとされるが、左胸の乳首に奇妙な黒いアザができていたのが記録に残っている。このアザは中国では「歴史に名を残す人物にできる相」とされており、萩城下の医師もこのアザを見てたいそう驚いたと言われている。
その後の高杉の成長は、決して順風満帆というものとは言えないものであった。幼少時は非常に病弱であり、10歳までに風邪をひいて何度か死に掛けたことがあった。表に出る機会もあまりなく布団の中で寝たきりであったこともしばしばあった。この頃の高杉は読書を趣味としており、後に松下村塾で学ぶこととなる豊富な知識の素養はこの時に得られたとされる。
魔王としての頭角を見せるのは高杉が10歳の頃である。疱瘡を患って失明してしまった高杉は、戦国時代に数々の人間を血祭りにあげてきた織田信長が高杉の前に現れるという幻を体験した。高杉曰く、「信長が自分の額に触れた瞬間、フッと視界が開けるようになった。その視界の先には燃え盛る炎の中に信長が立っていて、鬼の形相でにらみつけていた」と語っているが、正直信憑性に乏しい。
だが、この出来事があった直後に高杉の視力は奇跡的に回復し、その一週間後には高杉の右手から、将棋の駒ほどの大きさの火球が念ずるだけで出てくるということを現象を発生させた(ドラゴンクエストでいうとメラ相当)。魔法が使えるようになったのである。この出来事から程なくして剣術を学び始めた高杉は、徐々に病弱な子供から屈強な大人へと成長を遂げる。同時に、高杉が使える魔法も日に日に増えていった。
吉田松陰・伊藤博文との出会い[編集]

1857年、吉田松陰が主宰している松下村塾に入塾。このとき、最大の友人かつ悪友であり最高の仲間である伊藤博文、頭脳明晰で高杉と共に松門双璧と言われた久坂玄瑞、後にできることとなる高杉直属の部隊・奇兵隊の中核人物となる吉田稔麿などと出会い、親交を深めていった。
高杉らが入塾した松下村塾についてはまだまだ謎の部分が多く、糞マジメが売りの百科事典の松下村塾の項目を見ても具体的なことは書かれていない。吉田松陰が塾生に何を教えたのかさえ書かれていないのである。だが、高杉や桂小五郎(後の木戸孝允)などといった明治維新の要となった長州人の多くが松下村塾出身であることから、おそらく松下村塾では政治・経済・社会・教養といった所を重点的に学んだと思われる。同時に高杉は、塾生同士でいろいろな話題の議論を繰り返していたとされており、高杉の指導者としての素養は松下村塾時代に形成されたと言っても言い過ぎではない。
1858年に幕府が天皇の許可を得ずに日米修好通商条約を締結した報を受けた松陰は激昂し、この条約を締結した張本人である老中・間部詮勝を暗殺しようと計画する。当時、一番弟子の座をゆるぎないものにしていた高杉はこれに大いに賛同し、松陰とともに江戸へ向かい老中暗殺計画を実行しようとした。だが、一部の松陰を快く思っていない塾生がこの情報を幕府にリークしてしまう。高杉らが江戸に到着した頃には江戸中にその情報が伝わってしまい、三日もしないうちに捕縛されてしまった。
高杉らが江戸で捕縛されてから年が変わった1859年、時の大老である井伊直弼は自らの意見に反対するものは徹底的に大弾圧する政策をとった。安政の大獄の始まりである。弾圧の対象は老中暗殺を企てた高杉らも例外ではなかった。
1859年11月21日、高杉と松陰は斬首刑に処されることとなった。まず始めに、松陰に刑が執行されることとなったのだが、松陰は辞世の句として次の句を唱えた。「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」と。この句を聞いた高杉は涙を流し、松陰の最後の教えを受けたと言われている。
ほどなく松陰が斬首され、次は高杉の番という時のことであった。高杉がなにやら呪文を唱えると、いきなり高杉の周囲で爆発音が響きだした。執行人があわてて制止しようとしたが、その数秒後には高杉の半径数百メートルが火の海に包まれた。この大爆発によって松陰の遺体や執行人数人は灰燼に帰し、近所の屋敷にいた水戸脱藩士17人と薩摩脱藩士1人が行方不明となった。(だが、この脱藩士達は後に意外な形で発見されることとなる。詳細は後述。)
一方、伊藤博文は勉強そっちのけで町の女にセクハラを繰り返していた。
桜田門外の変と全国遊学[編集]
爆発騒動を起こしてからは、高杉はしばらく江戸に身を潜めていた。師である松陰の仇・井伊直弼を討つためであった。だが、ただ仇を討つだけなら江戸城に一発炎の玉をぶち込むのが一番簡単で楽である。狡猾な高杉はあえてその手段をとらず、"死霊魔術でゾンビを遠隔操作し、ゾンビに暗殺させる"という手段を選んだ。前年の爆発騒動で水戸・薩摩の脱藩士計18人が行方不明となったのは前述した通りだが、高杉はその死体をあらかじめ回収しておき、今回の暗殺計画に使おうという算段であった。
幼少の頃に魔法の才能に目覚め、その後は古今東西の魔法を覚えることに熱心となった高杉にとって、死霊魔術などお茶の子さいさいであった。高杉は江戸の隠れ家に18人の脱藩士の死体を放置したまま1860年3月に江戸を旅立ち奥州街道を北上、その後栗橋関(現在の彩の国さいたま栗橋町)を通過し利根川を越えたところで、高杉はおよそ直線距離にして50km以上離れた所から死体を遠隔操作し、井伊直弼の暗殺を謀った。その結果、高杉の操るゾンビは江戸城桜田門外で井伊直弼の行列の襲撃、暗殺に成功。これを「桜田門外の変」といい、後世に語り継がれることとなった。
その後、高杉は翌1861年8月まで東北で姿をくらます。潜伏中も全国各地の魔法を学んでいたようである。当然のように多くの魔法をマスターした後、青葉城を擁する仙台・会津藩のお膝元である会津若松・1858年に締結された日米修好通商条約によって開港した新潟・富山の薬売りで名を轟かせている富山・人食い鬼の伝説が残る鬼ヶ淵・尊敬する織田信長の出身地である名古屋・天皇が居住する都京都・堺に代わる新たな貿易港として注目されていた神戸を経由し、1862年のはじめに萩へと帰還した。
一方、伊藤博文は相変らず女をたぶらかしている毎日を送っていた。
上海渡航と奇兵隊結成[編集]
1862年5月、高杉は全国遊学中に知り合った五代友厚と一緒にさらなる魔法の修行のために中国(清)の上海へと渡航する。中国を中心とした東洋の魔法をマスターするためである。だが、アヘン戦争やアロー戦争でイギリスなどの欧米列強に焦土状態にされ、さらには太平天国の乱まで発生してしまい混迷を極めていた上海には、高杉の望むような東洋の魔法はすでになかった。泣く泣く高杉らは上海を焦土状態にしたイギリスに憎しみの炎を燃やし、わずか二ヶ月で帰国した。
萩に戻っても怒り狂っていた高杉は大嫌いなイギリスを潰すために、当時長州藩内はおろか日本全国で流行していた尊王攘夷運動(以下、尊攘運動)に桂小五郎・久坂玄瑞・入江九一らと共に参加した。(高杉は伊藤博文も尊攘運動に誘ったが、痴漢に忙しいという理由で断った)その後はイギリス憎しの思いで、品川に建設中のイギリス公使館の焼き討ちを行った。このことがきっかけで長州藩は幕府に徹底的にマークされてしまう。(だが高杉の絶大なる力によって事実上、幕府は長州藩に対しては無力であった。)
この事件がきっかけで、高杉は自らの私兵として「奇兵隊」を組織した。本当は「騎兵隊」を組織したかったのだが、残念ながら必要な馬が手に入らなかったのである。それでも何とか体裁が整ってノリノリになった高杉らは、つい勢いで関門海峡を横断していたアメリカ・フランス船に攻撃をしかけてしまう。結果、奇兵隊は米仏それぞれ2隻ずつを沈没させることに成功するが、その一月後には高杉が魔法を使う前に大反撃を食らってしまい、奇兵隊の初陣は大敗北を喫してしまった。
この騒動で伊藤博文はフランス船に忍び込み強姦を仕掛けた。数人が被害にあったものの、結局は相手の兵士にリンチにあってしまいこちらも大敗北を喫している。
新撰組との対峙と連戦連敗[編集]
奇兵隊の初陣は大敗北を喫してしまい、高杉は失意のうちに風邪をこじらせてしまった。高杉が病床に入っているこの隙をついた1863年9月30日(旧暦:1863年8月18日)、京都で八月十八日の政変が発生。この事件がきっかけで長州藩を中心とした尊攘派は一斉に弾圧され、京における長州藩の立場は無かったことになってしまった。
年が明けて1864年6月、病は癒えたものの未だに調子の出ない高杉に信じられない報告が入った。京都に滞在していた尊攘派が、吸血鬼・土方歳三こと荒木飛呂彦率いる新撰組に襲撃されたという。(池田屋事件)。この知らせを聞いた高杉は激昂。久坂玄瑞と共に奇兵隊は京都へ進軍した。
翌7月に奇兵隊は京都へ到着。だが、京都の街は人っ子一人もいなく閑散としていた状態であった。この想定外の状況に冷静さを失った高杉は「クールになれ、クールになるんだ高杉晋作……」と言いながら、京都の街を火の海に包み込んだ。その結果、京都はわずか三日にして焦土と化してしまった。だが、燃え盛る炎を見て発狂してしまったのかますます高杉は冷静さを失ってしまった。その隙をついて新撰組の荒木飛呂彦ら、薩摩藩・会津藩の連合軍に急襲を受けてしまい、またしても奇兵隊は大敗北を喫してしまった。(禁門の変)
禁門の変で久坂、入江は戦死、高杉はズタボロになりながらテレポーテーションで萩へと帰還した。京都へ進軍した奇兵隊の99%が壊滅状態に至ったこの禁門の変が起こっていたさなか、相変らず伊藤博文は援助交際にのめりこんでいた。
四国艦隊下関砲撃事件[編集]
禁門の変による大敗のショックは非常に大きかった。相次ぐ連敗の知らせを聞いて長州藩全体の空気がよどみ、奇兵隊の士気はとても低かった。高杉がリベンジを呼びかけようとしても応じる人間は少なく、桂小五郎や山県有朋、変態の伊藤博文ぐらいのものであった。
そんなやる気のない空気が長州藩を包んでいた8月5日、今度はイギリス・オランダ・フランス・アメリカの連合艦隊が空気を読まずに下関へとやってきて攻撃を仕掛けてきた。この前年に伊藤博文がフランス軍に従軍していた女を強姦したことへの報復である(上海渡航と奇兵隊結成の節を参照)。このことを聞いた伊藤は、曾孫の伊藤誠よろしく逃走を図ろうとするが、高杉は即刻縄で縛りつけ自宅で謹慎処分に処した。だがすでに下関の町は火の海に包まれており、高杉ら長州藩はたった一時間で降伏せざるを得なかった。
詳細は「四国艦隊下関砲撃事件」を参照
8月18日、高杉は長州藩講和使節の使者に任命され、諸悪の根源である伊藤博文の謹慎を解除し、通訳名目で講和に連れ込もうとした。当時の伊藤は縄で縛られたせいでオナニーも出来ない状態で、開放された時には元気を失っており枯れ木のように痩せこけてしまっていた。そんな伊藤を見て、いつ暴れ出してもおかしくないと悟った高杉は、見るからに重厚そうな甲冑を身にまとい講和に臨んだ。
オランダ・フランス・アメリカの三国は「伊藤博文を引き渡すこと」と「賠償金300万ドル」を条件として講和を結ぼうとし、高杉もそれに同意しようとした。(通訳である伊藤は烈火のごとく大反対したが、当然の如く無視された。)だが、イギリスはこの条件に加え「関門海峡に浮かぶ彦島をイギリスに租借すること」と長州藩に要求した。
これに高杉は待ったをかけた。高杉としては伊藤一人とそれなりの金銭を手渡せば済む話だったのを、領土までぶんどられるのは想定外だと思ったからである。この態度に怒った四国はますます条件を厳しくしていき、講和は平行線をたどったまま夕刻を迎えようとした。
そんな状況の中、唐突に高杉は以下の文を唱えた。ここにその最初の一部を引用する。
高杉はいきなり「古事記」の序文を唱えだしたのである。魔法の呪文を唱えるならまだしも、古事記である。はっきり言って意味不明である。これを聞いた伊藤は「ついに頭が逝かれたか」と思った。列強四国の代表も同様かと思ったが、ただ一人を除いて恐怖におののいている人物がいた。イギリス側の通訳であるアーネスト・サトウであった。
西洋魔術や悪魔降臨に通じていたサトウは古事記を唱える高杉を見て、「魔王の再来だ!! 魔王の再来だっ!!」と絶叫した。高杉の意味不明な行動がサトウには悪魔召喚に見えたのである。サトウは引き続き、「条件を緩和しないと悪魔が襲ってくる!!」と連呼。尋常ではないサトウのこの態度に、他の使節も態度を軟化。結局、最初の条件である「伊藤博文の引き渡し」と「賠償金300万ドル」で講和するに至った。また、この出来事が切欠で、世界中に高杉が魔王と認知されるようになった。
なお、引き渡されることとなった伊藤であったが、講和の数日後にイギリス人女性を孕ませ脱走、萩に舞い戻っている。
長州藩の掌握と薩長同盟[編集]

高杉は、脱走した伊藤博文をもう一度自宅謹慎処分にした。今度は縄でなくて鎖で雁字搦めにしたという、より厳しいものであった。長州藩の人物は、伊藤の脱走が切欠で再び欧米列強が攻めてこないかと危惧したが、高杉の魔王としての評判が全世界に広まったことから、二度と列強が長州藩に攻めてくることはなかった。
この頃になると、高杉はその多大なる魔力と武力によって長州藩の全権を掌握している。いまや誰も長州藩で高杉に逆らえる人物は誰もいなく、高杉晋作の名前を長州で知らない人間は誰もいなくなっていた。以後、高杉の死の直前に至るまで長州藩は高杉の独裁状態が保たれることになる。
江戸幕府による第一次長州征伐が1864年10月にあったが、高杉は左腕一本で幕府軍を追い返している。このことが日本全国に知れ渡り、幕府の権威は完全に地に落ちてしまった。
幕府軍を追い返した高杉が次に目をつけたのが、今や幕府以上の強さを持つとされている薩摩藩であった。当時の薩摩藩は幕府をしのぐ軍事力を保有し、前年の薩英戦争ではイギリスとほぼ対等に渡り合ったという実績を持っていた。その上幕府軍の所有する武器は旧式の火縄銃が主流だったのに対し、薩摩藩の所有する武器はイギリスから輸入していたピストルが主流であった。当時、武力による日本統一を目論んでいた高杉にとってはとても魅力的であり、薩摩藩を長州藩の傘下にすれば武力統一も夢ではないと確信していた。
こうして、高杉は奇兵隊を率いて1865年12月に薩摩へと出兵する。結果はもはや言うまでもないだろう。わずか一週間で兵力の大半を殺がれてしまった薩摩藩は、年が変わった1866年1月21日に、土佐藩脱藩士の坂本龍馬・中岡慎太郎を仲介人として講和を結ぶことになってしまった。これを俗に薩長同盟というが、実質的には薩摩藩が長州藩の傘下に入ることと同じだった。[テストに出るよ!]
これにより、高杉ら長州藩は大量のイギリス製の弾薬と豊富な兵力を入手。長州藩の武力による日本統一はもはや間近に迫っていた。
西洋魔法の会得と第二次長州征伐[編集]
イギリスとのパイプを持つ薩摩藩を自分の手中に抑えた高杉は、そのパイプをふんだんに利用した。一昨年の上海渡航で得るはずだった西洋魔法をこの時ようやく会得するようになったのである。結果、高杉がこれまで以上に多くの魔法を使用できるようになり、その力をより強固なものとした。
薩長同盟の締結から約5ヵ月後の6月7日、ふたたび幕府軍が長州に攻め込んだ。小倉・安芸・石見・日本海海上の四方から攻められる形となったが、今の高杉がやられるはずがあるだろうか。いや、ありえない。
結果、幕府軍は高杉が使う西洋魔法の実験台となってしまったのである。ある者は一瞬にして石化してしまい、またある者は高杉が起こした竜巻によってはるか彼方へと飛ばされてしまった。またある所では、高杉が降らせたとされる隕石が幕府軍の本陣を直撃。この戦いで高杉は数万人もの犠牲者を一人で出してしまったとされる。三味線片手に爆発する高杉の姿を見た者は皆口を揃えて三味線無双と言ったという。
これに飽き足らず高杉は、当時の将軍・徳川家茂を呪い殺そうと試みた。当時、家茂は遠く400km以上離れた大坂におり、呪い殺すのは難しいと考えていたがあっさりと成功してしまう。この知らせを聞いた幕府軍は即座に撤退。一度ならず二度までも、幕府軍数万人は高杉一人に勝てなかったのである。(第二次長州征伐)
この頃高杉は、四国艦隊下関砲撃事件以来謹慎させられていた伊藤博文の謹慎を解いている。だが、幕府軍に従軍していた女を襲ったりと伊藤は全く反省していなかった。
急死[編集]
幕府軍を二度も退けた高杉は、武力による江戸幕府の倒幕計画を立て実行に移そうとしていた。1867年1月、高杉は倒幕の兵を挙げ、十万人を超す奇兵隊(このうち半数以上が高杉が魔界から引き連れた魔物であると推定される。当時、すでに高杉は悪魔召喚までも会得していたのである。)と共に江戸へ向かおうとした。
その直前に倒幕計画は白紙に帰してしまう。高杉が吐血、昏睡状態に陥ってしまったのである。結核が高杉の身体を蝕んでいたのである。その後意識は回復、以後は下関郊外の桜山で療養生活を送った。高杉は遠い下関から江戸に魔法で攻撃を仕掛けようとしたが、その度に吐血。月日が立つにつれて回数・量は増していき、かつての魔王としての威厳は無くなっていった。
こうして高杉は1867年5月17日、江戸幕府の滅亡を見ることなくわずか29歳でこの世を去った。魔王の最期としては呆気ないものだった。その後、伊藤博文らによって晩年を過ごした桜山に埋葬された。
辞世の句は「おもしろき こともなき世を おもしろく」(詳しくは辞世の句の節で説明する)。
人物[編集]
外見[編集]
高杉の外見は幼少時の生活が大きく影響している部分が多くある。幼い頃は寝たきりの生活を送っていたことにに因果しているのか肌はとても色白く、筋肉や脂肪もあまりついていなかった。このことが所以でいじめられることが間々あり、(病弱という理由もあるが)自宅で自宅警備員に専念することもしばしばだった。
第二次性徴期に入り健康状態も回復し剣術を始めるようになった高杉の身体は、以前とは見違えるほどの様子となっていった。筋肉がある程度つき、ほどほどに日焼けした肉体は色白で筋肉がほとんどついてない幼少時と比べると別人のように思えるほどになった。以後、死の直前に結核が高杉の身体を蝕むまで、この体格は保たれていった。
身長は154cmと現代人の感覚で考えると少々小柄ではあるが、幕末当時の男性の平均身長は155cm、L'Arc~en~Cielのボーカルであるhydeの身長は1hyde(156cm)であることを考えると決して小さくはなかった。だが高杉は154cmという身長にコンプレックスを持っており、外国人との会話の場では特注のシークレットブーツを用意し履いていたというエピソードが残っている。古事記を唱え列強代表を震撼させた四国艦隊下関砲撃事件の講和時にはシークレットブーツの他にも、講和の場にはそぐわない重厚な鎧を装備して臨んだことからも、身長に関するコンプレックスを持っていたことがよく分かる。
幼少時の経歴の節でも述べたが、生まれつき左胸の乳首に奇妙な黒いアザができていた。このアザが後に多くの魔法を使えるようになったこと、10歳の時に疱瘡を患って失明してしまっても奇跡的に回復したこととの因果関係は、あらゆる困難が科学で解決するこの平成の時代になっても、当時の資料が殆ど残ってないことから解明されていない。
性格[編集]
ヒトラーや毛沢東に代表されるように、独裁者というものは疑心暗鬼であり全く他人が信用できない性格であることが多い。高杉も長州藩を掌握してからはあらゆる事を一人で決断することが多くなり、他人の意見を軽視していた節が多く見当たる。(事実、死の直前に計画していた武力倒幕は高杉の独断によって計画されたものである。)
だが、独裁者に至る前の高杉は決して疑心暗鬼とは言えなかったとされる。伊藤博文や桂小五郎などの学友との付き合いは欠かさず、彼らの悩みなどもよく聞いていたことから、魔力などなくても頼りがいのあるリーダー的存在であったことが分かる。何故このような民主的なリーダーが、武力に物を言わせるようなワンマン主義者に変貌したかは、幕末史における謎として今日でも話題となっている。
悪魔達の上に立つ管理職である魔王としての極悪非道な一面も備えている。高杉はエクストリームスポーツの中でも最も過激とされる放火を好んでいたとされ、禁門の変では、京都の市街地を高らかに大笑いしながらノリノリで右腕から炎の玉を連射、その結果として京都の街はわずか三日にして焼け野原と化してしまったなど、高杉が起こした残虐なエピソードを語ると枚挙にいとまがない。高杉の放火によってこの世を去った人数は判明しているだけでもおよそ10万人と、当時としては破格の人数を葬ったとされている。これらのことから、高杉がいかに残虐な一面を持っていたがよく分かる。
このように残虐な一面を持っていた高杉であったが、決して女には手を出さず男にしか手をかけないといった一面を持っていた(決してホモという意味ではない。高杉は1860年に萩出身の女と結婚している)。高杉は強姦、痴漢、セクハラ、覗き、盗撮などといった行為を忌み嫌っており、それらを行った者に対しては厳しい制裁を加えていた。なお、「セクハラが日課」と恥ずかしげもなく公言する親友の伊藤博文に対しても容赦なく制裁を加えていたが、何度も病院送りにされても伊藤は全く反省しなかった。結局、高杉の存命中には伊藤の性癖は直ることはなく、安重根こと松永久秀によって暗殺されるまで矯正されることは一度もなかった。
辞世の句[編集]
高杉が遺した辞世の句は「おもしろき こともなき世を おもしろく」。このわずか17文字の俳句からも、高杉の性格がどのようなものだったかが推測することが可能である。
幕末史に詳しい早稲田大学の元教授である植草一秀によると、「腐りきったつまらない江戸幕府による治世を打ち倒し、万民が面白い生活を送れるような治世を作り出したい。」という意味であると説明している。この植草による解釈が最も一般的なものであるとされているが、この他にもいろいろな解釈が多数あるとされている。実際に高杉がどのような思いでこの句を詠んだかは、死後150年近くなった現在となっては知る由はない。 だが上の句のみで詠われた辞世の句は、高杉の破天荒な人柄を表すと共に、幕末という短い時間を駆け抜けていった彼の人生をも表現した、名句である。
施策[編集]
1864年の四国艦隊下関砲撃事件以降、長州藩の実権を握った高杉は1867年の病死まで独裁体制を布くに至った。この節では高杉が政権を握っていた約2年間の間、どのような藩政を行ったかについて解説する。
軍事[編集]

四国艦隊下関砲撃事件を経て高杉が最初に行ったことは、長州藩主である毛利敬親を長州から追放することであった。列強四国との講和直後に、高杉晋作とゆかいな仲間たちこと奇兵隊が馬関こと下関で挙兵。毛利ら率いる勢力を武力によるクーデターで追放するまでには至らなかったものの、自らの傀儡とすることに成功した。こうして高杉は長州藩の実権を完全に掌握するに至ったのである。
その後は高杉の私兵であった奇兵隊を、長州藩公式の日本初の西洋式軍隊として整備を行った。当時の日本としては初めてである徴兵制度の導入はそのもっともたるものであった。当時、兵力として見なされていたのは特権階級である士族のみあり、その他の階級の人間は戦闘に関わることすらできなかった。この徴兵制度は士族以外にも戦闘に関わる機会を与え、藩内の士気を極限までに高めることに成功したのである。
使用する武器についてもそれまでの刀を捨て、西洋式の鉄砲、高杉自身は三味線を導入した。当初は弾薬に乏しく満足に武装することはできなかったが、薩長同盟が締結され容易にイギリス式の弾薬が手に入るようになると、奇兵隊の西洋化は急速に進んだ。
もちろん武器を新調するだけでは駄目だと感じた高杉は徴兵した兵士に徹底的に厳しい訓練を加えることによって、兵士一人一人の質を高めることを考えた。ビリーズブートキャンプも真っ青な厳しい訓練は、兵士たちに厳しい戒律と世界情勢を教え込み、長州藩の人間としての誇りを持たせることに成功した。こうして、長州藩は当時としては日本一の軍事力を持つにまで成長したのである。なお、自身は武器として鉄砲を使わず三味線のみだったという。
しかしちょっと待って欲しい。こんな地味なことをして魔王である高杉が満足するはずがあろうか。そんなことは有り得るはずがない。「おもしろき こともなき世を おもしろく」という辞世の句を残した高杉が、軍事に対してだけネタにならない政策をとったとは到底考えられないのである。事実、高杉は軍事に関しても現代では考えられないような政策をしっかりと行っている。
前述したような厳しい訓練を兵士に施した場合、ほぼ必ずといっていいほど脱落者が出てもおかしくない。だが高杉が率いた奇兵隊にはそのようなことは全くなかった。それは高杉が強大な力を持つ魔王であることに所以する。
実際にはあまりの訓練の厳しさについていけずに奇兵隊を脱退しようとしたり、ある者に至っては命を落としかけてしまうことは日常茶飯事であった。高杉はそのような人間に対して意識不明の人間でも即座に健康にできる回復魔法をかけたり、徹底的な洗脳をかけて二度と脱退しようと思わせないようにしたのである。洗脳をかけても効果がなかった場合は、秘密裏に粛清した。
また倒幕などには一切興味のない、当時では珍しいとされたオタクの層に対しても高杉はメスを入れた。高杉はエロガッパとして定評のある伊藤博文に萌えとエロゲ要素を絡めたプロパガンダポスターを描かせ、オタクが集まりそうな場所にポスターを貼り付けた。ポスターでオタク達を釣り上げようとしたのである。高杉の思惑は見事に的中し、奇兵隊に志願する大きなお兄ちゃんが急増、長州藩内で動かないであろうとされていたオタク層を奇兵隊に引き込むことに成功したのである。
これらの背景があって、奇兵隊が日本最強の軍隊となるに至ったのである。
内政[編集]
「倒幕」の旗印の下に挙国一致体制をとることを選んだ高杉は、後にソビエト連邦の創始者であるレーニン、あるいはその後継者である岡田真澄ことスターリンを髣髴とさせるような藩政を行っている。
高杉が長州藩の実権を握って間もなく、旧藩主である毛利敬親ら反倒幕派の粛清と称したに入った。毛利本人は死の直前にあっさりと倒幕派に移ったため死を免れることとなったが、それらの反倒幕派は高杉の手によって否がおうにも粛清された。長州藩下の一般市民も粛清の対象に向けられ、幕府の味方をする人間については容赦なく天安門事件の如く虐殺させられた。高杉政権下の長州藩内では言論の自由は許されておらず、自由を求めるものは日本各地へと散り散りになっていったのである。
このような強引とも言える過度の抑圧政策によって長州藩を一枚岩に仕立て上げていったがその代償は大きかった。最終的に高杉らによって粛清された人間は当時の藩の人口の5分の1にあたる約10万人、長州藩から逃げていった人間は約1万人と、自藩の人間だけではなく他藩すらも恐れ慄く恐怖政治を布いていたのである。
これ以外にも、内政面についての高杉は錯乱してるとしか思えない政策を打ち出している。藩の政治機能を萩から山口に移転する政策はそのもっともたるものであり、現在でも山口移転政策は多くの歴史家の批判の的となっている。
長州藩の本拠地は元々山口にあったものであり、萩に移転したのは毛利敬親の先祖である毛利輝元であった。このことを知った高杉は「臆病者の先祖が作ったこんな場所にいられるか!」と憤慨。たったそれだけのくだらない理由で長州藩の本拠地を萩から山口に移転をしたのである。この山口移転はただでさえ火の車であった藩の財政悪化に拍車をかけ、高杉が病死し移転政策が中断するまでその傾向は続いた。一説によると、高杉の死があと半年遅ければ長州藩は破綻していたとされ、米沢藩の財政再建に貢献した上杉鷹山と比較すると「天と地のようだ」と評する専門家もいるほどである。
このように内政面では批判が絶えない高杉であるが、不思議と海外からは人気が高い。カンボジアのポル・ポトやイタリアのムッソリーニは高杉のファンである代表的な独裁者としてその筋の人間では有名である。
魔法[編集]
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この節を書こうとした人は途中で寝てしまいました。 後は適当に頑張って下さい。(Portal:スタブ) |
10歳の時に魔法に目覚めた高杉は20代半ばという若さで病死するまでに、三味線を片手に数十万人近い人間を得意の魔法で震いあがらせた。高杉が生前に使用した魔法の数は1000を優に超えており、後世の魔法使いや魔法少女、はたまたファンタジーやRPGなどの創作作品に多大なる影響を与えた。この節では、魔王・高杉が使用したとされる代表的な魔法について触れる。
攻撃魔法[編集]
高杉が最も得意としたジャンルであり、その数も多大なものであるとされている。
- メラ
- 高杉が10歳の時に初めて習得した魔法であり、将棋の駒ほどの大きさの火球を放出する。習得したての頃はそれこそ相手に小さな火傷を与える程度のものだったが、全盛期の頃の高杉は鎌倉の大仏ほどの大きさの炎球を放出することができ、威力は核爆発にも劣らなかったとされる。高杉の死後からおよそ110年後に発売された日本のゲーム「ドラゴンクエストIII」に登場する「メラ」のモデルであることはいうまでもない。高杉が最も得意とした魔法であり最も使用した魔法の一つである。
- イオナズン
- 詳細については当該項目を参照。安政の大獄で捕えられ処刑の危機に瀕したとき、その恐怖と師である吉田松陰が刑死されたことによる悲しみと怒りから突発的に発動した魔法である。多くの人間に即死級の大ダメージを与えることが可能ではあるが使用した後はかなりの精神力を消耗することと、前述の松陰の死を思い出してしまうことから、高杉は滅多に「イオナズン」を使うことはなかった。
- メテオ
- 全盛期の高杉が非常に愛好した魔法の一つで、第二次長州征伐の際に多数使われた。対象の頭上に多数の隕石を人為的に降らせ、対象に多大なる衝撃を与える魔法である。はるか頭上にある物体を正確に攻撃対象に当てる必要があることから、相当熟練した魔法使いでないと使いこなすことは難しいとされている。その難易度から、後世では数々の作品で究極の魔法という扱いを受けており、ファイナルファンタジーにおけるメテオも例外ではない。
- トルネド
- メテオと同様に第二次長州征伐の際に多数使われた魔法である。巨大な竜巻を魔力で発生させ、自由自在に操る。トルネド一発につき数百もの人間が行方不明になったとされ、見た目も相当派手であることから高杉は好んでトルネドを使ったとされる。元々は西洋の魔法であり名前はストレートに"tornado"(トルネード)であったが、日本に伝来すると何故か長音が抜け現在の名称になった。
- デス (ザキ)
- 江戸幕府の第14代征夷大将軍・徳川家茂の殺害に使った魔法で、対象の人間を一瞬にして死に追いやることができる。対象の人物はある程度離れていても可能であり、実際に高杉は400km以上離れた場所からこの魔法を使うことに成功している。
- クエイク
- 名前の由来は英語の"Earthquake"(地震)から。魔法の名前が示しているように大きな地震を起こし、周辺に甚大な被害を与える。1861年10月21日に宮城県沖でM7.4程度の地震が発生したが、この地震は高杉が起こした地震である可能性が高い。高杉はその2ヶ月前に仙台を発っており、タイミング的にも起こした可能性は十分にある。
- サラシオ
- 高杉が全国を遊学した際、鬼ヶ淵(現在の岐阜県鹿骨市雛見沢村)にて習得した魔法である。自分の頭上に雷雲を召還し、雷を多数落とす。この魔法を使える人間は高杉を除いては雛見沢村のごく一部の人間しかいなかったが、その一部の人間も1983年6月に発生した雛見沢村連続怪死事件、あるいはその直後に発生した雛見沢大災害の犠牲になったとされ、現在では使用できる人間はいない伝説の魔法となっている。
回復魔法[編集]
猿も木から落ちるという諺があるが、高杉の強烈な攻撃魔法が味方に当たることも間々あった。そんな時には以下の魔法で多くの命を救った。
- ダホマ
- 「サラシオ」と同じく鬼ヶ淵にて習得した魔法である。呪文を唱えることにより傷を癒す効果を持つ波動を放出し、敵味方を問わず周囲にいる人間の体調を回復させる。極めれば癒しの波動を自由自在に操ることが可能になり、任意の人物のみ魔法の対象にすることができるようになる。
- セクハラ気質が激しい伊藤博文は、吉田松陰や奇兵隊のメンバーによって度々タコ殴りという名の制裁を加えられることが多かったが、高杉の使うダホマによって何回も命を救われている。高杉自らが伊藤に制裁を加える時にも例外ではなく、(親友という関係があるからか)反省した暁にはきっちりとダホマを使用していた。(いくらタコ殴りにされても高杉がいつも助けてくれたことから、伊藤の性癖が一生直ることがなかったのは高杉が甘やかしたからという説がある。)
- 残念ながら死人に対してはこの魔法の対象になることはない。高杉は禁門の変で戦死した久坂玄瑞をダホマで蘇生させることを試みたが、息を吹き返すことはなくその場で大粒の涙を流したというエピソードがある。
- リホイミ (リジェネ)
- 戦場に立つ際に、保険として高杉自身にかけていた回復魔法の一種。対象一体にかけることによって数分毎に少しずつ体力を回復することができる。魔法の対象として複数を指定できないこと、一回の回復量が微少であることから高杉はこの魔法をあまり好んでなかったようであった。
補助魔法[編集]
直接攻撃したり回復させたりするような魔法ではないため派手さはないが、自らの状況を有利にすることから高杉は補助魔法を多く習得した。
- スットロンガ
- 「サラシオ」「ダホマ」と同じく鬼ヶ淵にて習得した魔法である。自身の攻撃力と防御力を上昇させ、自らの戦闘力を大幅に向上させる魔法である。その効果もさることながら、スットロンガがかかった状態になると髪の毛が逆立ち全身のあらゆる毛が黄金色に染まることから(いわゆるスーパーサイヤ人状態)、高杉は一騎打ちの際によく愛用していた。名前の由来は伝説上に伝わる神「ポルンガ」の訛りであるとされる。
- マイティガード
- 西洋魔法の一種で対象の人物を浮揚させるとともに防御力をあげる。魔法を反射させるというおまけつきであるが、幕末日本で魔法が使えるのは高杉ただ一人であったことからほとんど意味がなかった。(回復魔法が反射することからデメリットしかなかった。)「スットロンガ」と共通する事項が多いがマイティガードは自分以外の人間を対象とすることが可能だったので、奇兵隊の兵士に使われることが多かった。
- スロウ (ボミエ)
- 対象一体の行動速度を細胞単位で極端に下げる魔法である。高杉は修行によりこの魔法を改良することに成功し、全盛期の高杉によるスロウ(ボミエ)は複数にかけることができるとされる。(複数にかけた場合にはスロウガ、もしくはボミオスという。)高杉が結核に侵された際にはスロウを自分に向けて唱えたが、焼け石に水。半年もしないうちに高杉は命を落としてしまった。
召喚魔法[編集]
死の直前には召喚魔法も習得しているが、時期が時期だけに確認されているものは少ない。結局、実戦で召喚魔法が使われることはほとんどなかった。
- 悪魔召喚
- 書いて字の如く魔界から大量の悪魔を召喚する魔法。召喚された悪魔は召喚者の忠実な下僕として活躍してくれる。種類は多種多様にも及び、死の直前までにおよそ5万近くもの悪魔が高杉の手によって召喚された。これらの悪魔は高杉の死によって居場所を失い大半は元の魔界へと帰っていったものの、一部の悪魔は日本に残ったと思われる。残存した悪魔は数多くの超常現象を起こしたとされ、迷宮入りとなった多くの事件は高杉が召喚した悪魔の犯行だと一部でまことしやかに囁かれている。
- 人間召喚
- 厳密に言うと召喚魔法の範疇ではないがこの節で紹介する。任意の人間を好きなときに高杉の目の前に召喚することができる魔法である。もっとも、問題行為を起こした伊藤博文を呼び出す位にしか使われていなかったのが実情で、実戦での使用は皆無であった。もし実戦で使われていたら、幕末以降の歴史が大きく変わってしまう可能性が高かったと想像がつく。
その他の魔法[編集]
- ネクロマンシー (死霊魔術)
- 死体を術者の意のままに操る魔法。高杉は1860年の時点でこの魔法を究めており、桜田門外の変では18人分もの死体を操って井伊直弼の暗殺に成功している。精神力を大量に消費してしまうのが欠点であり、桜田門外の変の直後に歴史の表舞台から1年ほど姿を消したのは死霊魔術を乱発したからという説が有力である。
- テレポーテーション
- 自分自身を任意の場所へ瞬間的に移動させる魔法。ネクロマンシーと同様に使用後は精神力を大量に消費してしまうため、本当にどうしようもない時に最後の手段として使われる。禁門の変で新撰組の土方歳三こと荒木飛呂彦に敗れた際に使用したことで有名な魔法である。
トリビア[編集]
- 尊敬する人物は幼い頃に幻を見たとされる織田信長、松下村塾時代の師匠である吉田松陰の二人をあげている。特に高杉の信長信奉はすさまじく、山口へ長州藩の機能を移転した際には山口城を安土城を模した巨大な軍事要塞に改築させたほどである。
- 吉田松陰信奉もすさまじく、松陰の批判をした人間は即座に高杉によって粛清された。まるで金正日における金日成のような関係である。
- 高杉の魔王としての歴史が全く表舞台にあがらないのは、明治維新後に高杉(長州藩)を嫌悪する西郷隆盛や大久保利通ら薩摩閥が暗躍したことによる。高杉の私利私欲のために実行した薩長同盟の恨みによるものであるとされる。
- 高杉氏の祖先は魔界の大妖怪とされ、高杉本人は13代目の子孫であるという説が濃厚である。13代前の高杉の祖先が魔界からやって来た時に作り上げた城の名前が「高杉山城」ということから、確実性が高い。
- 伊藤博文は高杉のことを「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや……」と評している。これは伊藤が女に暴行を加えたら、雷電の如く即座に高杉が風雨の如く罰を与えたためとされた為かと思われる。
- 高杉晋作の旧宅が現在でも萩市に残っている。その他にも高杉を崇め称える建造物が多く残っており、萩は現在でも幕末期の高杉信仰が色濃く残っている。そのため、萩では高杉の悪口はタブーとされるため旅行する際には十分に注意したい。
- 高杉が実権を握ってからの一連の圧政は共産主義の影響が強いとされている。現に萩の旧宅からは当時日本に輸入されていなかったマルクス・エンゲルスの「資本論」が発見されている。もし高杉が急逝していなかったら、日本は世界で一番最初の社会主義国家になっていた可能性がある。
関連項目[編集]
- 魔王 - 高杉晋作以外の魔王について書かれている。
- 独裁者 - 高杉晋作以外の独裁者について書かれている。
- 織田信長 - 自称第六天魔王。
- ベネディクト16世 - 現在の老魔法王。猫に弱い。
- 園崎お魎 - 昭和期に活躍した雛見沢村の魔法少女。
- 山縣有朋 - 後の内閣総理大臣。高杉の留守時に奇兵隊を指揮した唯一の人間。
- 吉田稔麿 - 松門三秀の一人、高杉の副官だったが池田屋事件で戦死した。
- 久坂玄瑞 - 高杉と共に松下村塾の双璧と言われた。
- 伊勢谷友介 - 高杉の三味線無双を忠実に演じた俳優。
- 金田一蓮十郎 - 高杉の子孫である漫画家。残念ながら魔法は使えない。
- ULTRA SWORD - 林家志弦の成人向け漫画。主人公が高杉と同じく左胸の乳首に黒いアザがある。
- るろうに剣心 -明治無職浪漫譚- - 和月伸宏の漫画。高杉がスポット出演している。
- おもしろきこともなき世をおもしろく - 高杉晋作の原作ポエムから派生した呪文。
- 男の中の男
外部リンク[編集]
- [1] 高杉が列強四国との講和時に唱えた古事記の原文が掲載。
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